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読谷人物伝

軍政下の苦悩 比嘉秀平

祖国復帰の父 屋良朝苗

1.幼かったころの日々 −読谷山瀬名波に生まれて−

2.畑の中ですごした少年時代

3.あこがれの師範へ

4.寄宿舎生活から高等師範へ

5.物理の教師として

6.身体をぶつけて生徒を教育

7.ふるさとは見る影もなく

8.文教部長として教育の復興に力を注ぐ

9.教職員会会長として −沖縄の教育復興−

10.主席公選実現までの長い闘い

11.公選主席として

12.鈍角の闘争

13.新生沖縄県にむかって

14.戦後初の知事

15.沖縄振興開発と県民

16.波乱と苦難の8年

17.埋め立て竣工認可

18.県民よ希望を持とう

 

18.県民よ希望を持とう

■解説文

 1976年6月、平良幸市知事が誕生し、県議会も革新が過半数を制しました。「革新の火は、良識ある県民の手で受け継がれた」、屋良朝苗は琉球主席・県知事の8年間を回想して語っています。「・・・強靱な生活力に恵まれている民族は、簡単には滅びない。沖縄県民は、あの戦争の悲劇惨禍の中から力強く立ち上がり、アメリカの手段的方便的支配にも屈することなく民族的節操をまもりぬき、至難な復帰をかちとった。私たちの祖先が昔から逆境にも負けず旺盛な活動力で海洋にいどみ、すぐれた文化創造能力で有形無形の文化遺産を残したのは歴史の示す通りである。・・・基地のほか難問を限りなく抱え込んでいる沖縄だ。困難は多くとも、悲観してはならぬ。楽観もすまい。『県民よ希望を持とう』と私は心から呼びかけたい。・・・」とメッセージを県民に送り、屋良は激動8年のかじ取りを終えました。
 1947年、知念高校の校長に赴任。1950年、沖縄郡島政府文教部長。沖縄教職員会長・沖縄戦災校舎復興促進期成会長・沖縄子どもを守る会会長など教育復興に活躍し、1968年に初の主席公選に当選しました。「即時無条件全面返還」「核抜き本土なみ返還」を掲げ、沖縄の本土復帰に精力的に活動し多くの困難を乗り越え、1972年5月15日に施政権返還を成し遂げました。復帰後は戦後初の県知事に就任し、植樹祭、若夏国体・海邦博覧会などを開催、基地問題や県経済の復興に取り組み県政の基盤づくりや発展に努め8年間県政の長として活躍しました。読谷村では1989年8月、読谷村名誉村民顕彰で功績を称えました。1997年2月、「復帰の父」と呼ばれた屋良朝苗は享年94歳でその生涯を閉じました。

■写真解説

出版祝賀会の屋良

県民葬のパンフレット

復帰の父屋良朝苗

 

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更新日:2008年3月18日