■解説文
屋良知事は琉球政府行政主席に就任した直後、B52が墜落するなど、復帰にむけて数々の難問にぶつかりながら、熟考に熟考を重ねるように決断して行政の長として歩んでいきました。本土復帰して沖縄県になり、記念行事が立て続けにとりくまれるなかでも、さまざまな問題にぶつかり、混乱と悩みはとぎれることはありませんでした。 当時日本の石油備蓄計画にともないCTS(原油貯蔵施設)誘致の問題がありました。施設建設のため平安座島ー宮城島間の公有水面の埋め立て許可申請も提出されていました。しかし、反CTS運動の高まりで宮城島では、用地取得が困難となっていました。そのころタンカー公害による海の汚染が目立ち、琉球列島沿いに航行するタンカーの垂れ流す廃油が、宮古・八重山の海岸まで汚染し白い砂浜を汚していました。行政がCTSを認可したころには宮城島の一部に反対はあったものの地元村議会が承認していたのです。 1973年ごろには、屋良知事の支持母体である革新諸団体の間にCTSに反対の運動が高まり住民運動も盛り上がっていきました。本土企業の土地買い占め・開発ブームによる自然破壊などが伝えられ、社会的にも環境保全への関心が高まっていきました。屋良知事は「一度認可したものを撤回できるのか」「どの道を選ぶにしても問題を収捨する自信はない」として、苦悩しました。そして県議会の平良幸市議長に気持ちを伝えました。翌年、1月19日熟慮の結果「CTS立地反対」の声明を出しました。それに怒った一部の政党の人々は与儀公園で屋良知事の退陣を要求する大会を開き、そのデモ隊が知事室になだれ込み混乱、那覇署員がかけつける騒動もありました。CTSの混乱のなか、小禄の幼稚園構内の排水工事現場で地中に埋もれた戦時中の不発弾が爆発し、死亡4人、重軽傷32人、家屋80棟、と車両41台が全半壊する大惨事がおきました。 |