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読谷人物伝

軍政下の苦悩 比嘉秀平

祖国復帰の父 屋良朝苗

1.幼かったころの日々 −読谷山瀬名波に生まれて−

2.畑の中ですごした少年時代

3.あこがれの師範へ

4.寄宿舎生活から高等師範へ

5.物理の教師として

6.身体をぶつけて生徒を教育

7.ふるさとは見る影もなく

8.文教部長として教育の復興に力を注ぐ

9.教職員会会長として −沖縄の教育復興−

10.主席公選実現までの長い闘い

11.公選主席として

12.鈍角の闘争

13.新生沖縄県にむかって

14.戦後初の知事

15.沖縄振興開発と県民

16.波乱と苦難の8年

17.埋め立て竣工認可

18.県民よ希望を持とう

 

3.あこがれの師範へ

■解説文

 好きな勉強ができることはたいへん嬉しいことでしたが、農業の手伝いで本を読む機会もなかった朝苗にとって使丁になることは勇気のいることでした。しかし、この機会をのがしたら学問の道は得られないと思い、家の人たちのゆるしを得て渡慶次小学校で働くことにしました。そこでは小学校時代の同期の人が先生になって働いていました。同期の人たちの小使いさんとして働く朝苗の姿を校庭のすみから見ていた母親は、進学させられなかったことがつらく涙を流していました。校長先生の家族や先生たちも朝苗が師範学校に受験することを勧め励ましてくれたり、兵隊に行っていた兄が軍隊生活の中で学問の大切さを身をもって知ったことで進学をすすめてくれました。小学校5年ごろの教科書からやりなおし、8カ月の間必死に勉強にとりくみ、師範学校を受験することになりました。
 当時の知花英康村長は「村の振興は人材の育成から」として一カ月5円の育英資金をだすことを決め、師範への受験をすすめました。そのころから師範に受験する人数も増え読谷村の教育界で活躍した人たちも輩出しました。朝苗は合格しましたが、父親が大病で床に臥せっていて畑仕事の人手が足りずにいるのをみて、進学を諦めるのかと悲しく涙をこぼしました。そのようすに病床の父親も兄たちも、当山・曽根両先生や村長・先輩たちも励まし応援しました。あこがれの師範に入り、先生になれるのかと思うと朝苗はその喜びが体中からあふれ、おさえることができないほどでした。読谷の第一回目の村費学生となったのです。

■写真解説

渡慶次小学校(戦前)

仕丁としてはたらく朝苗

知花英康村長

 

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更新日:2008年3月18日