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読谷人物伝

軍政下の苦悩 比嘉秀平

祖国復帰の父 屋良朝苗

1.幼かったころの日々 −読谷山瀬名波に生まれて−

2.畑の中ですごした少年時代

3.あこがれの師範へ

4.寄宿舎生活から高等師範へ

5.物理の教師として

6.身体をぶつけて生徒を教育

7.ふるさとは見る影もなく

8.文教部長として教育の復興に力を注ぐ

9.教職員会会長として −沖縄の教育復興−

10.主席公選実現までの長い闘い

11.公選主席として

12.鈍角の闘争

13.新生沖縄県にむかって

14.戦後初の知事

15.沖縄振興開発と県民

16.波乱と苦難の8年

17.埋め立て竣工認可

18.県民よ希望を持とう

 

14.戦後初の知事

■解説文

 沖縄は琉球政府時代の一国なみの行政から日本の自治体としての一県に移行していきました。すぐに県知事選挙・県議会選挙が実施され、再び屋良朝苗は革新共闘会議から県知事候補に推薦され「励ます会」も結成されました。保守勢力は大田政作氏をたて一騎打ちになりました。復帰が実現したこともあり多くの県民は県政をまかせる人に屋良知事を選びました。県議も過半数が革新で占め、その体制も前進しながら根をはっていくものと思えました。
 屋良知事は世替わりの仕事に忙殺される中、植樹祭・若夏国体・自衛隊・海洋博・高速道路・CTS問題など、「沖縄の抱えている問題は困難と矛盾に満ち、限りある力で解決していくには困難であるが、矛盾が生じ、不満・不利益を最小限にくいとめることが如何に大事であるか」と苦悩しながら一つ一つ取り組んでいきました。
 復帰してすぐに国土緑化を推進するため植樹祭・特別国体・国際海洋博覧会などの記念行事があいついで取り組まれました。戦後27年が過ぎたとはいえ、県民の多くが地上戦にまきこまれた悲惨な戦争体験の傷はいやされていませんでした。心の奥深くに悲しみを押し込めて日々の暮らしに追われて生きてきたのです。摩文仁霊園で植樹祭が行われましたが、4千人の参加者の中に昭和天皇の姿はありませんでした。
 復帰記念行事としての特別国体はテーマに「若夏国体」、スローガンを「強く・明るく・新しく」が選ばれました。各県持ち回りで開催されている国体には自衛隊も参加していましたが、沖縄県では自衛隊抜きの立場にたっていました。しかし、一部に参加があり、機動隊が出動という場面があり、沖縄の苦しみを理解していない国側に対して、怒りは静かに広がっていきました。それでも、エイサー太鼓をオープニングにした若夏国体はみごとなローカル色と本土復帰の喜びが表現されていて、感動的に進められました。開催にともない那覇市の奥武山・沖縄市・名護市の体育会場は立派に整備されたのです。

■写真解説

屋良朝苗の当選を伝える新聞

植樹祭

若夏国体

 

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更新日:2008年3月18日