■解説文
知念高校では定期的に創作品展覧会をしていましたが、生徒の作品は優秀で、どんな能力がひそんでいるのかと不思議なくらいでした。グロリア台風で校舎が吹き飛ばされときは、民政府からもらいうけた資材で机・腰掛を製作し、生徒たちは生き生きとした表情で喜びました。学校現場としては最後となった知念高校は教育者としての朝苗に語り尽くせない多くの思い出を残しました。知念高校に在任中、軍の方針で教育指導者講習会に派遣され、九州大学で3カ月本土の教育の実情を見て新しい教育にふれて驚かされました。沖縄では図書を売る店もなく、参考書さえ見たこともなかったのに福岡の街では満ちあふれていました。校舎や服装にも大きなへだたりがあり、沖縄の子供たちがかわいそうでした。 平良辰雄知事の推薦で文教部長に就任した屋良朝苗は校舎の問題・教育の普及・教員の待遇などさまざまな問題を抱え忙しい日々を過ごしていました。しかし、那覇で暮らすには給料が安く家族を養うことができないため、妻のヨシに再び教壇に立ってもらうことになりました。そのころは台風も多く、仮校舎など全壊しても、立派な建物を建てる見通しもありませんでした。南部の高嶺小学校を視察したとき、みすぼらしい仮小屋の中で、机もなくボール箱で石に腰掛けて勉強しているのを見て、いつまで戦争の犠牲を罪のない子どもたちに受けさせているのかと胸を締め付けられたのです。 解決の道はただひとつ、日本政府や国民に訴えることだと思い、指導主事の喜屋武真栄に話しました。そんなおり、文部省から代表が来島したので、沖縄の教育の現状を訴え、請願書を提出したことで文部省が沖縄に目をむける強い契機になりました。1951年、臨時中央政府が設立、翌年、布令六十六号の草案が提出されました。それに反対を唱え屋良朝苗は群島政府が解散したことで、文教部を去ることになりました。 |