■解説文
戦後沖縄は行政的に沖縄本島・宮古・八重山・奄美大島の四群島からなっていて、それぞれに知事がいました。1950年に知事は公選制になり、52年の3月まで続きました。4月から四群島が合併し琉球政府となり、主席は軍政府による任命になりました。主席を公選制にと願う県民の運動はこのころから始まっていました。日本復帰・国政参加・渡航の自由・裁判権の回復の運動は主席が任命されるたびに一層激しくなっていきました。基本的人権の回復を願い、自分たちの首長は自分たちで選ぶという自治権回復の運動だったのです。 それまで、異民族支配のもとで、さまざまな苦しみを経験してきた県民にとって「即時無条件全面返還」は悲願でもありました。戦後も20年たった65年ごろから祖国復帰運動がもり上がり、人権・自治権拡大、基地撤去などの県民要求が高まりました。67年11月佐藤・ジョンソン首脳会談の共同声明に基づく日米琉諮問委の設置、主席公選の動きが始まりました。軍事優先に進められる軍政府の圧政下におかれ、人権さえ守れなかった県民にとって自らの意志で主席を選ぶことができる時がきたのです。その革新側の候補者に屋良朝苗が選ばれました。県民の悲願であった公選主席の選挙は、島中が激しく燃えました。あの強大なアメリカに打ち勝つことが出来るのだろうかと不安感と悲壮感が交錯しながらも屋良への支持は広がっていきました。選挙は教え子の西銘順治とのあいだで師弟のあらそいになりました。革新勢力が一つにまとまり保守派の「イモ・ハダシ」論を打ち破り、屋良主席が誕生しました。 当時はベトナムへむけて、アメリカ軍の戦闘機が県民の頭上を飛び去り攻撃を行っていました。砲弾に追われて逃げ惑うベトナムの民衆の姿には、沖縄戦でアメリカ軍の砲弾で殺戮された県民の姿が重なっていました。戦争にかかわるものには土地を提供したくないと反戦地主たちも動きはじめました。 |