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読谷人物伝

軍政下の苦悩 比嘉秀平

祖国復帰の父 屋良朝苗

1.幼かったころの日々 −読谷山瀬名波に生まれて−

2.畑の中ですごした少年時代

3.あこがれの師範へ

4.寄宿舎生活から高等師範へ

5.物理の教師として

6.身体をぶつけて生徒を教育

7.ふるさとは見る影もなく

8.文教部長として教育の復興に力を注ぐ

9.教職員会会長として −沖縄の教育復興−

10.主席公選実現までの長い闘い

11.公選主席として

12.鈍角の闘争

13.新生沖縄県にむかって

14.戦後初の知事

15.沖縄振興開発と県民

16.波乱と苦難の8年

17.埋め立て竣工認可

18.県民よ希望を持とう

 

13.新生沖縄県にむかって

■解説文

 沖縄返還協定は基地の態様・核ぬき・本土なみ・特殊部隊の存置など不安を残したまま調印されました。屋良主席は「返還協定に不満はあっても復帰は厳粛な事実・・・不満であっても目指す方向に近づけていく努力が大事な態度である」と語り、調印式には参加しませんでした。そのころまだ沖縄はドルを使用していました。全国都道府県知事会にオブザーバーで参加していたとき、突然「ニクソン大統領がドル防衛策を打ち出した」というニュースを聞かされ会場にざわめきがおこりました。ベトナム戦争で国防費が増大し、国際収支が悪化したアメリカの政府はドル防衛策を取ったのです(ドルショック)。ドルの価格が下落すると、沖縄は計り知れない打撃を受けるのです。「屋良主席の東京詣で」と新聞に書かれるほど、本土との折衝を繰り返し、台湾時代の教え子であった山中貞則総務長官が沖縄県民に不利益を与えない努力をすることを約束し、復帰時に1ドル=360円を保証したのです。
 1971年11月17日、沖縄国会への「建議書」を持って上京した屋良主席を大勢の報道陣が待っていました。その訳は「衆議院沖縄返還協定特別委員会で自民党が返還協定を強行採決した」ことへの質問をするためでした。20日ごろと聞いていた屋良主席は、県民の要求を突っぱねた国のやり方に言葉も出なかったのです。その特別委では国政に参加していた瀬長亀次郎・安里積千代の両議院の質問も封じこめられてしまいました。
 1972年5月15日に新生沖縄県へ移行することが決まり、東京と沖縄で記念式典が行われることになりました。当日の沖縄は朝から冷たい雨が降り続いていました。琉球政府は閉庁され沖縄県庁と刻まれた碑は雨に濡れて冷たくたたずんでいました。那覇市民会館では祝賀の式典が執り行われ、その隣の与儀公園では5・15を屈辱の日として冷たい雨の中で県民抗議集会が行われていました。雨は傘をも通り抜けて参加者たちの身体にまでしみ込んでいきました。

■写真解説

復帰準備委員会発足式

1ドル=305円に決定したことを伝える新聞

復帰記念式典

 

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更新日:2008年3月18日