■解説文
東シナ海を吹き抜ける北風と荒波のおしよせる海岸近くに瀬名波の集落があります。その北寄りに100年以上前首里あたりから移住してきた人たちが川平屋取(カビラヤードゥイ)と呼ばれる集落を形成していました。屋良朝苗の生まれた家も、廃藩置県(1879年)後、首里から川平に移って新しい生活を始めました。原野を開拓し生計をたてていくことはとても大変なことでした。集落には湧き水がなく海の近くの〈瀬名波ガー〉という泉まで水を汲みに行きましたが主に女性たちの仕事でした。水汲みは一日も欠かすことができませんから母や義姉の姿を見て朝苗も手伝いました。また、家から畑までの道のりも遠く時間がかかりました。そんな厳しい状況のなかで家族のみんなが力を合わせ、骨身を惜しまず働くことに一生懸命でした。 屋良朝苗は1902年12月13日に屋良家の四男として生まれ、17歳までそこで育ちました。幼いころは体が弱く引っ込み思案の朝苗を両親は特別に可愛がっていましたが、学校に通いはじめて次第に元気な子供に成長していきました。とくに村の相撲大会では何人も勝ち抜くほどの人気者で小学校の高学年になると腕力もつき、少しずつ向学心もでてきました。当時の小学校は、本は教科書だけしかなく、本を読む機会も少なく、音楽の時間にオルガンもありませんでした。勉強はほとんど学校だけで、農作業などの手伝いをして家を助けていましたが、朝苗は最高学年になると嘉手納にある県立第二中学校への憧れが強くなり、進学したいと思っていました。 |