■解説文
「沖縄問題はコンクリートのような厚く巨大な障害物に立ち向かうときに鋭利な刃物では削れないように、全県民的支持を得て立ち向かっていかなければ、刃こぼれするだけである」と屋良主席は語っていて、これを〈鈍角的態勢〉と呼んでいます。B52撤去要求も〈鈍角の闘争〉の一つでした。下地島訓練飛行場問題・毒ガス移送問題・全軍労の全面ストなど県民の復帰への期待は高まっていきました。沖縄県民と全国民の期待の中、返還は「核つき、基地自由使用」をもくろんでいるのではないかと日米両政府に不安を持っていました。1969年11月22日「72年に返還の合意」と共同声明が発表されました。県民は喜びの中にも納得できない思いが広がりました。 県民が不安を抱えたままの本土復帰に、帰国した佐藤首相を羽田飛行場に出迎えることは断念しましたが、「佐藤・屋良会談」で「本土なみ返還」であり「核ぬき返還」であることを確認してきました。「復帰への具体的なイバラの道への一歩の始まり」だと屋良主席は語っています。主席に就任して一年を迎えようとしていました。 沖縄に対しての国庫支出が増えていく中で、軍に働く労働者の解雇があいつぎ、ピーク時には2万8千人いた労働者は復帰時点で1万9千人になっていました。雇用の機会の少ない沖縄では再就職の場は少なく、全沖縄軍労働組合(全軍労)では、大量解雇に対してストライキを決行して対抗しましたが、アメリカ軍との折衝は腹立たしさと空しさだけが残ったのです。70年12月コザ市(現沖縄市)で騒動事件がおこりました。そのころ主婦轢殺事件のアメリカ兵が軍事裁判で無罪になりました。それまでのアメリカ軍政府の重圧下で耐え続けてきた県民の不満がコザ市で起こった交通事故をきっかけに一気に爆発したかのようにアメリカ軍の車だけが燃やされました。 |