■解説文
全滅と聞いていたふるさとに帰ることは勇気のいることでした。朝苗は親・兄弟・知人たちがどうしているのか、沖縄の実情を見てからこれからの生き方を決めようと妻子を連れて帰ってきました。長男だけは本土の大学に進学するように送り出し、母や兄がいた石川にむかいました。その途中の目に見えるところには住宅が一軒もなく、広いと思っていた沖縄が一望の下に見渡せ、すべては破壊しつくされ同年輩の人たちはほとんど亡くなられ、戦争の悲惨さをつくづく感じたのです。ただ、玉砕と聞いていたわりには生存者も多く、人の生命の力強さに感動しながらも、生き残った人々の心は荒れすさんでいて、戦果思想が人々の心をおおい、親を亡くした子供たちはなお哀れな暮らしをしていました。 学校は校舎はもちろん机・腰掛もなくテントか露天で地面に字を書いたり、海辺で歌を唄ったりしていました。ともかく学校は開始されて、物的条件が無いなかでも教育はすすめられました。早く教師にもどって先生方に呼び掛け、教育の再建にあたろうと朝苗は安里源秀平(後の琉球大学学長)校長のいた田井等高校(現名護高校)の教師になりました。しかし、赴任一月で知念高校の校長に転任することになりました。当時玉城村親慶原の高台に校舎が建てられました。そこは近くに軍民政府があり、沖縄の政治の中心地として賑わっていました。生徒たちは教科書もノートもなく、服装は軍服の改良服なので朝苗は、たいへん胸を痛めました。生徒たちの自主性を育て、困難を乗り切れる人間を育てることが教育上最も大切なことと考え、実践しました。そのころの沖縄の教育界では高校を卒業しても進学の道は文教学校か外語学校以外に生徒たちの進む道は開けていませんでした。「必ず進学の道は開けるから」と生徒たちを励ましたのです。 |