■解説文
1952年5月、教職員会員の推薦で会長に就任しました。喜屋武真栄も事務次長として運営に携わり、すぐに地域懇談会を実施し、校舎復興の運動に取り組み始めました。そのころ比嘉秀平主席から文教局長就任の要請がありましたが、教職員会の理事会の決定でそれを断り会長を続けることになりました。その年の11月、東京の高嶺明達から、「沖縄の戦災校舎復興のため全国の児童生徒に一円カンパを呼び掛ける運動を展開する」との報せが入り、沖縄でも促進期成会を結成し、教職員会・市町村長会・PTA連合会・婦人連合会・青年連合会が参加しました。会長に就いた屋良朝苗は連合会の会長たちと喜屋武とともに全国を回ることになりました。 沖縄の問題を全国民の問題として、沖縄に関心と責任をもってもらい、日本復帰につなげていく世論を高めていくことなど、物心両面の取り組みでした。東京にも事務所をおき、写真・アルバム・新聞(沖縄の教育事情掲載)・メッセージなどを準備しました。四国の日教組大会に参加して各県をまわり、その他の府県は一期・二期・三期にわけて鹿児島から北海道まで「悲願の旅」を続け、背広の袖も擦り切れるほどでした。全国知事会・全国議長会・全国市町村会などや教育、婦人、青年会関係の人たちもふくめて募金を集めてくれました。とくに文部省は全国に配られる中等教育資料に沖縄の校舎問題を写真入りで取り上げ、訴えを載せて協力し、6千万円もの多額の募金が集まりました。しかし、アメリカ軍から圧力がかかり、建物には使えず、「愛の教具」として各学校に教育備品が配られました。この運動のあと米国民政府の圧力が強まり、屋良は教職員会と復帰期成会の会長を辞任しました。しかし、教職員会定期総会で会員一致で会長に再選しました。その後沖縄の民主教育の推進及び祖国復帰運動に全力を投入しました。57年には琉球教育法令六十五号が公布され、その内容に納得いかないまま、教職員会として布令撤廃、民立法の促進の運動が展開されていきました。 |