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読谷人物伝

軍政下の苦悩 比嘉秀平

祖国復帰の父 屋良朝苗

1.幼かったころの日々 −読谷山瀬名波に生まれて−

2.畑の中ですごした少年時代

3.あこがれの師範へ

4.寄宿舎生活から高等師範へ

5.物理の教師として

6.身体をぶつけて生徒を教育

7.ふるさとは見る影もなく

8.文教部長として教育の復興に力を注ぐ

9.教職員会会長として −沖縄の教育復興−

10.主席公選実現までの長い闘い

11.公選主席として

12.鈍角の闘争

13.新生沖縄県にむかって

14.戦後初の知事

15.沖縄振興開発と県民

16.波乱と苦難の8年

17.埋め立て竣工認可

18.県民よ希望を持とう

 

6.身体をぶつけて生徒を教育

■解説文

 1938年、台南に赴任した朝苗はクラブ活動にあたる「理科部」を設け、放課後、徹底的に製作指導をしました。希望者も多く理科に興味をもつ生徒が増え科学知識も正確になっていきました。毎年開催された理科展は台南二中の名物になり、知事から表彰されました。台南州全体の学校関係の創作品展覧会で台南二中の出品25点全部が入選し、日本の支配下で悩んでいた台湾の青年たちも元気になってきたのです。師弟の気持ちは民族をこえるものがあること朝苗は学んだのです。
 1943年、当時の台湾では学校の整理統合があり、新制の台北師範学校にいくことになりました。戦争状況も苛烈になり日本は食糧不足で、寄宿舎の生徒の食事も貧弱で、満足な活動もできなくなっていました。そんな中でも学校をあげて増産作業・軍への協力動員防空壕堀など重労働が続き、学生は応召され幹部候補生として入営していきました。ついに、学校を閉鎖し生徒も先生も応召され校長以外は軍隊生活にはいりました。沖縄出身の学生たちは朝苗の家で防空壕堀を手伝い、腹一杯ご飯を食べられることを楽しみにしていたと話しています。学校が閉鎖になり、朝苗たちは転々と移動しロンビアーという山の中に移動した時「沖縄は全員玉砕」の報告を聞き悲しさとさびしさに打ちのめされたと語っています。
 終戦後の台湾では学校の秩序も乱れ、台湾の生徒を差別的に取り扱った先生や生徒たちが制裁を受け、見るのも忍びないほどにうちのめされた姿に負け戦のみじめさをしみじみと感じましたが、不思議に沖縄出身者は殴られませんでした。諸設備を整理したり、清掃をしたりして学校の整理整頓といった作業を連日続けるなか、学校も中国に接収されました。文系の先生は学校から追われ、みそや野菜などを売りながら生活をつないでいましたが、物理は中国から専門の教師が来ていないので、引き続き学校で教えていました。形ばかりでやりがいのない日々で、希望のないまま一年たった1946年の暮れ、変わり果てた沖縄に引き揚げたのです。

■写真解説

台湾での授業の様子

太平洋戦争の展開

久場崎の引き揚げ碑

 

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更新日:2008年3月18日