■解説文
教職者としての道を歩き続けたいと思いながらも、多くの人たちの願いに応えて主席選挙に出馬し、当選した屋良は政治家としての第一歩を踏み出したのです。全県民的立場をモットーに、老いも若きも全ての人々が戦後の異民族支配から脱却しなければという思いの中で暮らしていること、政治を県民の手に取り戻すことを第一としたのです。一糸乱れぬ革新共闘の結束と「励ます会」に結集した人々の献身的協力、本土からの支援などさまざまな人たちが支えとなり、本土復帰を望む主席が1968年11月に実現したのです。 主席となった屋良には行政府の体制を固め、本土政府やアメリカ軍との話し合いが待ち受けていました。アメリカ軍はアンガー高等弁務官を更迭し後任にランパート中将を沖縄に送りました。アメリカ軍は「大統領の行政命令によって琉球政府公務員の人事に拒否権を持っている」こと、「復帰は国と国との高度な政治問題であること」を伝えてきました。12月には上京し、佐藤栄作総理をはじめさまざまな人たちに会いました。美濃部東京都知事・飛鳥田横浜市長・京都では蜷川府知事に湯川秀樹博士までが革新主席の誕生を祝福してくれました。佐藤総理は「復帰は必ず実現」することと国勢への参加に取り組むことを伝えてきました。2週間にわたり、東京・横浜・関西・九州を回り革新主席の誕生は想像以上に温かく迎えられたのです。 当選して間もない68年11月19日未明に嘉手納基地で爆弾を積んだB52が離陸寸前に、爆発・炎上する事故がおこりました。「命を守る県民共闘会議」ではゼネストを計画していました。ゼネストの是非をめぐり意見が交錯するなか、アメリカ民政府は布令を発令し、スト参加者に解雇を含む懲戒処分にすると警告を発してきました。本土政府からもゼネストは復帰交渉にさしさわりがあると伝えてきました。混乱の中平静に収拾するため「共闘会議にはすまない」と思いながらも屋良主席はゼネスト回避要請をだしたのです。 |