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常設展示室

第1展示室:読谷村と沖縄戦

テーマ1:日本の帝国主義と沖縄

テーマ2:読谷村の戦前の暮らし

テーマ3:迫りくる戦争

テーマ4:疎開と避難

テーマ5:日米の戦闘

テーマ6:住民の集団死

第2展示室:抑圧された占領下の時代

第3展示室:基地の中のむらづくり

第4展示室:基地の中に打ち込んだ文化のくさび

第5展示室:平和村づくりの推進

第6展示室:21世紀グランドデザイン

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深く

 

5.アジア太平洋戦争への道

■解説文

 関東大震災後の金融の混乱は恐慌(昭和恐慌)へとつながっていきました。中小銀行は休業・合併などで恐慌前には1417あった銀行が680に減り、預金高は大銀行に集中していきました。また、中国に多額の投資をしていた台湾銀行の危機は、中国の政治情勢が背景にありました。中国では国民統一運動がはじまっていて、国民革命軍が全中国を統一しようとしていました。
 日本は資源の乏しさを海外に求めていて、「満蒙」における権益を守ろうとしていました。特産品の大豆は世界恐慌のあおりなどで営業不振となっていました。1931(昭和6)年、関東軍は中国大陸の東北部・柳条湖で南満州鉄道(満鉄)を自ら爆破し、それを中国軍の行為であるとして奉天を占拠しました。(満州事変ー15年戦争)
 32年には上海を占拠(上海事変)し、中国の東北部にかいらい政権「満州国」をつくり、アジアへの侵略を拡大していった日本は、北京郊外で起きた廬溝橋事件(37年)をきっかけに、中国との全面戦争に突入しました。(日中戦争)
 資源を求めて南方アジアへの侵略を目的としていた日本国は大東亜共栄圏を掲げ、侵略という自らの行為を国民の目から遠ざけ、正当化しようとしていました。しかし、中国の南京に侵攻した日本軍は掠奪と殺戮、婦女暴行など残虐な行為を重ねました。(南京大虐殺)東南アジアに利権をもつアメリカ・イギリスと三国同盟(日・独・伊)の対立は決定的となっていきました。41年、輸入品の鉄や石油など資源をたたれた日本は、アジア・太平洋戦争へ戦線を広げていきました。

■写真解説

金融の5大銀行集中

現在の柳条湖

南京に攻め入る日本軍

■関連資料

▲より広く

1.満州事変ー15年戦争のはじまり

2.廬溝橋事件ー日中戦争

3.南京大虐殺

4.大東亜共栄圏構想

▼より深く

1.昭和の時代(戦前)

2.昭和初期の教育

3.大政翼賛会

4.植民地支配

5.移民と戦争

 

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更新日:2008年3月18日