■解説文
1937(昭和12)年7月、北京郊外の廬溝橋付近で夜間演習をしていた日本軍は、終了間際に2度の銃撃をうけ、兵士一人が行方不明になっていましたが20分後には行方が判明しました。しかし大隊への報告がおくれ、日本軍は出動し中国軍と交戦が始まりました。この事件が日中戦争の始まりといわれています。 前年におきた西安事件をきっかけに「一致抗日」で統一した中国は、国民党(蒋介石)と共産党(周恩来代表)が2回目の協力体制(国共合作)をつくっていました。廬溝橋事件の2日後の9日には中国との停戦協議が成立しましたが、日本の陸軍は関東軍・朝鮮軍の一部・内地からの三個師団派兵を必要とし、閣議も不拡大方針を掲げていながら陸軍の要求を承認しました。この事件を「北支事変」とよんで、政・財・言論の各界が一つになり国民の意識をまとめ、全面的な日中戦争へ進んでいきました。 1935(昭和10)年、日本国内では自由主義的な思想の天皇機関説に対して軍部・右翼などからの反対運動が高まり国体に反するとして告発され、出版物は発禁になりました。天皇制軍国主義の力が強められるなかで、軍内部の派閥争いで2・26事件がおこり、東京市に戒厳令がしかれました。すべての言論・報道・集会の自由は奪われ、メーデーは敗戦まで復活されませんでした。挙国一致体制がしかれそれを批判する運動や言論には厳しい弾圧の嵐が吹き荒れました。 |