■解説文
征韓論に破れて政府を去った板垣退助らによる自由民権運動は、国会開設などを要求して、全国的な広がりをみせていました。また、自分たちで憲法をつくろうという高まりもみせ、民間でつくった憲法草案は50をこえたといわれています。明治政府は1880年、それまで、自由主義的であった教育を、文部省や府知事、県令による統制を強めるため、教育令を改めました。官有物払い下げ事件が表面化し、追いつめられた政府は「明治23(1890)年に国会をひらく、そのための憲法は天皇がつくる」との詔勅をだし、国会開設を宣言しながら、天皇の専制体制を確立していきました。 1889年、大日本帝国憲法が発布され、天皇の大権と神聖化などが定められ、国民は天皇に統治される「臣民」となり、集会及政社法などで諸権利は厳しく制限されていきました。 明治天皇は1890年、「教育勅語」を発布し天皇への忠誠と、親への孝行を基本とした学校教育が行われ、天皇を絶対的な主権者とする国家をつくりあげました。こうした「家」を中心とした家父長制のもとでは女性たちの立場も狭められていきました。 1894年に、朝鮮で甲午農民戦争がおきると日本政府(伊藤博文内閣)は、それを理由に清国と戦争をはじめました。近代装備をもつ日本軍は清国軍をやぶり、満州・遼東半島山東半島に進出し日清戦争に勝利しました。日本はこの戦争の目的を「東洋全局ノ平和ヲ維持」するためとしながら、清国と「下関講和条約」を締結して朝鮮への支配権を確保、台湾を植民地として獲得することで大陸進出への足掛かりをつくりました。日清戦争の勝利は、反政府的であった国民の声をしずめ、沖縄県においても中央集権国家の一員として、土地整理事業・徴兵令など変革を受け入れるきっかけになったのです。 1904年、日本とロシアが韓国(朝鮮)の支配をめぐって対立し、日露戦争がはじまりました。激戦で多くの死傷者を出しながらの戦闘で日本軍は兵力も物資も使い果していましたが、ロシアも各地で農民の蜂起(第一革命)がおこりました。アメリカのルーズベルト大統領のあっせんで、1905年、講和条約がポーツマスで調印されました。1910年、日本は韓国を併合し、日本語教育を実施、日本人への同化を強要しました。韓国併合は、日本の大陸進出の足掛かりとなったのです。 |