■解説文
富国強兵をおし進めていた明治政府は、西南戦争(1877年)で戦費を使い財政の危機に苦しんでいました。当時大蔵卿であった松方正義はデフレ政策をおしすすめ、地方税をふやし国道建設などを地方税でまかないました。さらに、酒税・煙草税の税率をあげ、新たに間接税として醤油税・菓子税の税率を設けました。政府予算の歳出をすえおくため、軍事工業をのぞいた官営の工場・鉱山を三井・三菱・古河などの政商に払い下げました。富岡製糸場は投下資本が31万円かかりましたが、12万円で三井に、阿仁銅山の建設費は167万円でしたが、33万円で古河に払い下げになりました。 1882年には日本銀行を創立、国庫金の取扱、銀行券の発行などを行い経済・金融の中枢機関になりました。しかし、物価は下がり84年には米価はそれまでの半値となり、農村は深刻な不況におちこみました。輸入品の綿花・砂糖などに保護関税がかけられず(不平等条約)外国の安い商品におされ、土地を質に入れて高利貸や地主・豪農から借金して税を払う農民たちもおおく、なかには土地を手放す農民もいました。農村で発達した家内工業や小さなマニファクチュアの多くがこのころつぶれましたが一方で、政府の保護をうけた政商や地方の有力企業は大きくなり資本主義の土台がためが進み財閥へと発展していきました。 1890年ごろになると、資本主義のもとでの過剰生産がおこり、大凶作と重なり各地で「無職無銭」の窮民がふえ、米騒動がおこりました。工場労働者の三分の二は製糸・紡績に働く女子労働者でしたが、低賃金で1日12時間以上の労働を強いられていました。 |