■解説文
第一回衆議院議員選挙は、1890年に行なわれました。300議席のうち170議席を反政府勢力がしめていました。野党の5派(自由党・愛国公党・大同倶楽部・立憲改進党・九州同志会)は過半数をこえたので連合をつくろうとしました。第一次山県有朋内閣はこれをさまたげるため、「集会及政社法」を制定しました。この法律では、集会は48時間前に届け出を義務づけ、政談集会は屋内で、政社間の連絡と支部の設置を禁止し、軍人・警察官・教員・学生に女子などが政治集会へ参加することを禁止しました。 第一回帝国議会で、山県有朋首相は「主権線」(国境)を守るだけでなく、国境の安全を確保するための地域を「利益線」(韓国など)として、軍事費に巨額な予算を要求し予算案の31%をこえていました。有権者のほとんどが地主層でしたから当選議員も60%が地主でした。政費を節減して地租を軽減し、官吏の定員・俸給と軍備拡張費を減らすことを要求しました。これにたいして政府は、野党の立憲自由党・板垣退助ら土佐派の議員20余人を買収し削減の幅を小さくとどめたのです。自由民権の旗を守りぬこうとする中江兆民は、議会はもはや「うじ虫どもの陳列場」と抗議文を出して議会を去りました。 |