■解説文
1890年10月、日本の教育の基本理念として発布された勅語(天皇のことば・天皇が臣民にたいして発表した意思表示)。1948年、国会でその失効が確認されるまで、日本の教育政策や教育内容のありかたを規制してきました。 明治の欧化主義・自由民権思想の高まりのなか、儒教的皇国主義を掲げる人たちから〈徳育〉の方針がしめされ、明治政府は文部省に草案作成を命じました。法務局長官井上毅・宮中顧問元田永孚・学者の中村正直らによって作成された草案を骨子に成文化され、天皇の許可を得て発布されました。 教育勅語は、天皇への忠義と、親への孝行を道徳の基本とし「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉シ」として、いったん戦争が起これば命を投げ出して天皇のために戦うことを国民に強要し、天皇を絶対的な主権者とした国家への忠誠を国民に誓わせるものでした。 文部省は教育勅語を全国の学校に下付し、祝祭日の儀式や入学・卒業の式典などで奉読式を行うことを命じ、御真影(天皇・皇后の写真を敬っていう語)とともにその取り扱いは厳重におこなわれました。国民に皇民化教育を徹低させていくために、教育勅語はその内容も存在もおおきな役割を果たしたのです。 沖縄県の各学校にも、教育勅語と御真影は下付されていましたが、1944年十・十空襲後、御真影の守護を目的として教員たちを中心に「御真影奉護隊」が組織されました。沖縄戦では、各学校の御真影は集められ、沖縄本島では羽地村大湿帯の山中の洞窟に移されましたが、沖縄戦の組織的戦闘が終決した前後に焼却されました。 |