■解説文
1910年8月、「日韓併合ニ関スル条約」が調印され、大韓国は朝鮮に国名を改称・日本に併合され日本領にくみこまれました。明治政府は大陸進出のための重要な政策として韓国を領有することを望んでいました。三国干渉で国際的に孤立していた日本は、清国でおこった〈義和団の乱〉の鎮定に出兵し、イギリスと同盟を結び(日英同盟)、日露戦争(1904〜05年)に突入しました。05年9月、ポーツマス条約でアメリカ、イギリス、ロシアにたいして韓国における日本の優位性を認めさせ、11月には第二次日韓協約を結び、日本は韓国の外交権を掌握、統監府を設置し伊藤博文を統監の任に就けました。これに反対し韓国では排日運動が各地に広がりましたが、軍隊を出動させ鎮圧し、韓国を日本の保護の下におきました。韓国皇帝は密かに万国平和会議が開催されていたオランダのハーグに使者を送り、日本の保護権を否認することを訴えました。これを知った伊藤は、軍事力を背景に第三次日韓協約に調印させ、皇帝を廃位し、韓国の司法制度を改め日本人を判検事に採用、韓国軍隊を解散させました。韓国国民は各地で組織的な反日運動を繰り広げていましたが09年10月、ロシアに日本の韓国併合を認めさせる使命をもった前韓国統監の伊藤がハルピン駅で安重根に射殺される事件が発生、日本軍の制圧はさらに強まり反日運動はしだいに弱まっていきました。大韓国は朝鮮と改称、日本は政治的にも経済的にも朝鮮を支配し、以後35年の間(1945年まで)日本の植民地として支配下におかれ苦しい時代を過ごしたのです。 |