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常設展示室

第1展示室:読谷村と沖縄戦

第2展示室:抑圧された占領下の時代

第3展示室:基地の中のむらづくり

第4展示室:基地の中に打ち込んだ文化のくさび

第5展示室:平和村づくりの推進

第6展示室:21世紀グランドデザイン

広く

テーマ1:広く −琉球処分−

テーマ2:広く −帝国主義の展開−

テーマ3:広く −第一次世界大戦と日本の情勢−

テーマ4:広く −アジア・太平洋戦争への道−

テーマ5:広く −第二次世界大戦−

深く

 

3.日露戦争

■解説文

 1904〜05年に満州・朝鮮・日本海で戦われた日本とロシアの戦争。19世紀末、世界的規模で帝国主義国家が植民地獲得に動いていました。極東における国際的対立関係は、中国分割競争を中心に展開されました。ドイツ・フランスとともに日本の満州進出を阻止したロシア(三国干渉)は露清密約を結び(1896年)、日本の侵略にたいして清国とロシアが相互援助することを約し、満州北部を通る東清鉄道施設権を獲得しました。ドイツが膠州湾を、イギリスが九竜半島と威海衛を、フランスが広州湾を租借し、アメリカは遅れて中国の分割に加わりました。
 日本は、義和団の乱の鎮定(1900年)に兵をだし、清国に進出しましたが利権を獲得することはできませんでした。02年にイギリスと日英同盟を結び、ロシアとの対立を深め国内でも対露強行政策が強まっていきました。非戦論・反戦論に幸徳秋水、界利彦ら社会主義者、内村鑑三などキリスト教思想家がいましたが、世論の大勢は戦争にかたむいていきました。
 1904年2月、朝鮮の仁川から上陸した日本軍は京城(首都・ソウル)にむかい、朝鮮を制圧しました。朝鮮に日韓議定書を受け入れることを強要し戦略体制を有利にし、南満州へと戦線を拡大しました。日本軍は旅順攻略の203高地攻撃で膨大な損失をだしましたが、ロシア軍もバルチック艦隊が全滅し、国内では軍隊の反乱・農民の暴動がおこり革命の鎮圧が急務となっていました。日露両国ともに戦争を続ける力は限界にきていました。欧米から日露両国に講和がはたらきかけられ、ポーツマス条約が調印され休戦が成立しました。
 日露戦争における軍事費は日清戦争のときの約10倍にものぼり、増税でまかないましたが、死傷者も多く国民に強いられた犠牲はおおきかったのです。沖縄では徴兵令が施行(1898年)され召集・参戦した県出身兵は3800余人といわれていますが、日清戦争には志願して軍人になった人(屋部憲通等10人)もいたようです。また、皇民化教育になじめず地方改良運動に納得できなかった人たちもいましたが、若者たちのなかには自らの文化に自信が持てなくなった人たちもおおかったのです。徴兵忌避の気運が高まり、身体を傷つけたり、移民として海外に渡った人たちもいました。

■写真解説

列強による中国分割

日露戦争の戦力比較

日露戦争後の勢力範囲

 

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更新日:2008年3月18日