■解説文
★甲午農民運戦争(東学党の乱) 朝鮮でおきた農民の大蜂起。1894年3月、東学と呼ばれた宗教結社(土着のシャーマニズムに儒・仏・道を折衷し、キリスト教を排斥した民族的宗教)の指導のもとで、全羅道の農民が郡の役人の収奪に抵抗して蜂起し、全羅道の首都全州を占領、ソウルにせまる勢いをみせたため、朝鮮国王は、清国に鎮圧のため出兵を求めました。 日本政府は朝鮮支配の機会をうかがっていましたから、好機とみて朝鮮へ兵を出すことを決めました。しかし、朝鮮で蜂起した農民たちは朝鮮政府と和をむすび、日清両国が出兵する口実をなくすため全州からしりぞきました。 ★日英同盟 日本政府は朝鮮の内政に干渉をしながら、清国やロシアの圧力に対抗するためにイギリスとの条約改正を急ぎました。イギリスはロシアがシベリア鉄道開通をひかえていたことで、日本と手をつなぐ方策へと変わっていました。日本政府は陸奥宗光外相に条約改正をいそがせ、1894年7月ロンドンで調印されました。日英改正条約は、イギリスが望まない関税自主権を別にして、治外法権の撤廃、居住・旅行・営業の自由をイギリス人に認めることで締結しました。この後、多の国とも条約は結ばれ、ヨーロッパと対等な条約をアジアで初めて持つことになりました。 ★奇襲ではじまった日清戦争 日本政府が朝鮮政府に清韓条約の廃棄などを要求してソウルの王宮に軍隊を侵入させたのは、日英改正条約が調印された4日後の7月20日でした。日本海軍は25日に豊島(ほうとう)沖で清国艦隊を奇襲攻撃し、陸軍は29日牙山と成歓で清国軍を攻撃、天皇が宣戦布告したのは8月1日でした。戦争は8ヵ月にわたりましたが、鴨緑江をこえて満州を、遼東半島から旅順を、山東半島から威海衛を占領し、近代装備をもつ日本軍が勝利しました。1895年3月、下関で開かれた講和会議で朝鮮が独立国であることを清国に認めさせ、遼東半島・台湾・澎湖諸島を割譲させ、賠償金を支払わせました。しかし、ロシア、フランス、ドイツ三国の干渉で遼東半島を清国に返すことになりました。 |