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読谷人物伝

軍政下の苦悩 比嘉秀平

1.悲運な少年時代

2.学業に励み教師に

3.三中時代

4.戦争への協力

5.捕虜となって

6.諮詢会での活躍

7.志喜屋知事の片腕として

8.社会情勢の変化の中で

9.初代の任命知事

10.屈辱の4・28

11.土地とりあげと島ぐるみ闘争

12.主席として苦悩の中で

祖国復帰の父 屋良朝苗

 

12.主席として苦悩の中で

■解説文

 1953年から始まった土地接収は与座・親慶原・渡具知・具志と続き、翌年には伊佐浜・伊江島と基地を拡張していきました。米国民政府は、56年に調査団がまとめたプライス勧告を発表、米国を民主主義の国として信頼し大多数の住民の願いに耳を傾けると信じていた人たちまでが失望したのです。9月に各団体が参加して「沖縄土地を守る会総連合」が結成され代表団を日本政府に送りました。
 比嘉主席は苦悩の日々を過ごし、疲労の様相は隠せず、10月24日は体調が悪かったために早めに主席公舎から帰りました。公舎に戻り、池の鯉に餌を与え普段とかわらず食事をすませ、書斎で読書などしていました。10時ごろ「気分がすぐれない」といって胸元を押さえ12時ごろから苦しみだし、25日の午前3時半、帰らぬ人となりました。急性の狭心症と診断され、比嘉秀平は55歳の生涯を閉じました。遺言も遺書もなく主席として重責を担った苦悩は、その突然の死がすべてを語るのみとなりました。比嘉主席の急死は県民に強い衝撃と深い悲しみを残し、語る言葉も見つかりませんでした。
 幼少に右手を失い、努力して学問を積み上げ、身体を鍛練し、自己に厳しく、戦前は教育者として・戦後は政治家として沖縄のために働きつづけました。「自分のことは後世の歴史が物を言ってくれるはずだ」と語り、嵐に翻弄される船の船長として目一杯、沖縄のために働いたのです。

■写真解説

プライス勧告を原文で読む比嘉

座り込みをする伊江島の島民

初の任命主席比嘉秀平

 

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更新日:2008年3月18日