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読谷人物伝

軍政下の苦悩 比嘉秀平

1.悲運な少年時代

2.学業に励み教師に

3.三中時代

4.戦争への協力

5.捕虜となって

6.諮詢会での活躍

7.志喜屋知事の片腕として

8.社会情勢の変化の中で

9.初代の任命知事

10.屈辱の4・28

11.土地とりあげと島ぐるみ闘争

12.主席として苦悩の中で

祖国復帰の父 屋良朝苗

 

10.屈辱の4・28

■解説文

 1951年沖縄の帰属をめぐって住民投票がおこなわれ、72%が日本復帰を願っている結果となりました。しかし、講和条約の締結は住民の願望とはかけ離れ、沖縄は日本から切り離されることになりました。米国民政府は〈中央政府〉をつくり「琉球政府立法院議員」を選挙することを布令で発表し、琉球政府の主席に比嘉秀平を任命しました。比嘉主席は「経済の自立」が自治の確立に通ずるとして琉球経済の振興に努力しました。
 日本復帰を願った県民の思いは叶えられず1952年4月28日、講和条約第3条によって日本から切り離され、屈辱の日となりました。比嘉主席は「国際情勢が極めてデリケートな今日、われわれは、しばらく辛抱しなければならない状況に置かれている」と語り、この日本復帰の時期尚早論が社大党との溝を深め、考え方の違いが顕著になったのです。比嘉主席は社大党を離れ「琉球民主党」を結成、与党の党首として米国の施策に協力し「共産主義勢力の台頭を抑圧し、もって琉球の繁栄を達成する」道を歩みはじめたのです。比嘉秀平は52歳になっていましたが、戦後沖縄の苦悩と苦難の道はこれからも続き、心身ともに苛酷な時代となっていくのです。
 発足した琉球政府は基地建設の労働者のストライキや日琉間の渡航・貿易・各種援護事務・遺骨収集などさまざまな問題に加えて、軍用地の接収問題がおこりました。米国は布令109号で「土地収容令」を公布し、地主の意思とはかかわりなく強制的に収容するという措置を出してきたのです。

■写真解説

琉球政府発足当初の機構図

パスポート

布令109号(土地収用令)

 

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更新日:2008年3月18日