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読谷人物伝

軍政下の苦悩 比嘉秀平

1.悲運な少年時代

2.学業に励み教師に

3.三中時代

4.戦争への協力

5.捕虜となって

6.諮詢会での活躍

7.志喜屋知事の片腕として

8.社会情勢の変化の中で

9.初代の任命知事

10.屈辱の4・28

11.土地とりあげと島ぐるみ闘争

12.主席として苦悩の中で

祖国復帰の父 屋良朝苗

 

3.三中時代

■解説文

 比嘉秀平は、1924(大正14)年、産婆の資格をもつ金城秀子と結婚し、二男一女が生まれました。家族は那覇から名護に住居を移し、秀平は三中の教頭として、秀子は産婆として名護の人たちから親しまれました。秀平は生徒たちにたいして、ときには厳しく指導していましたがつねにやさしさを忘れずに接し、担当の英語の授業では歯切れの良い発音とリズミカルなイントネーションで教えるので生徒たちの理解は早くのちに英語教師として活躍した人たちもいました。その流暢で正確な英語力は戦後、秀平の運命を大きくかえることにもなったようです。また、出欠をとるとき万年筆のキャップを左手だけで器用にあけて書類に書き込む姿は生徒たちを驚かせ<ティーグヮー(ティーは手、グヮーは愛称)>のニックネームがつけられました。校内清掃では左手だけで杭を引き抜いたり、ときには名護湾で泳ぐ姿も見られ、自らを鍛えあげた厳しい秀平の生き方を人々は目にしていたのです。
 1944(昭和19)年になると、沖縄には守備軍が続々と上陸し、飛行場建設・横穴陣地の構築などで住民たちも作業にかりだされたり、軍隊のための食料供出に忙しくしていました。教師たちも作業の現場に出向き、生徒の監督をしていました。日本政府は戦時の緊急措置を発し、徴兵年齢を引き下げ多くの青年・学生を戦場に動員しました。また、英語は敵牲国家の言葉として授業時間を減らしたり、入学試験の科目から外しましたが、秀平たち英語教師は片身の狭い思いをしながらも、学問の一つであるとして少ない時間であっても実践的英語を教えつづけました。

■写真解説

教頭として赴任した沖縄県立第三中学校

比嘉秀平が泳いでいた名護湾(現在)

飛行場の建設の様子(読谷村)

 

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更新日:2008年3月18日