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読谷人物伝

軍政下の苦悩 比嘉秀平

1.悲運な少年時代

2.学業に励み教師に

3.三中時代

4.戦争への協力

5.捕虜となって

6.諮詢会での活躍

7.志喜屋知事の片腕として

8.社会情勢の変化の中で

9.初代の任命知事

10.屈辱の4・28

11.土地とりあげと島ぐるみ闘争

12.主席として苦悩の中で

祖国復帰の父 屋良朝苗

 

7.志喜屋知事の片腕として

■解説文

 恩師の志喜屋知事を補佐し翻訳を専任としていた比嘉は官房翻訳課長に抜てきされ、日本本土からの帰還者の受け入れをはじめ、通貨の切り替え、賃金制の実施、電話回線の設置、予算の編成など多くの困難な問題を処理するためその責務も重要さを増していきました。沖縄民政府は官房翻訳の課を部に昇格させ、部長に比嘉秀平を起用し責務はより重くなっていきました。
 沖縄における米軍政府は、それまでの海軍から陸軍に移管され、所在地も具志川村栄野比から玉城村親慶原に移しました。沖縄民政府も知念地区に移動し知事以下民政府のスタッフも、建てられた職員用の住宅に移動しました。(いわゆる「知念民政府」)
 それまで、米軍要員が作業していた那覇軍港の荷役作業を沖縄住民にやらせることになり、責任者として国場幸太郎が選ばれ、作業員たちの住まいとしてツーバイフォー住宅が建設されみなと村ができました。港湾の仕事はきつく、慣れていない人が多かったこともあり作業は進まず、能率が上がらないのを不満とした米軍政府は全島の食糧売店を閉鎖する指令を発しましたが、労務の提供に協力することで事態を打開し閉鎖はされずにすみました。そのころ中国大陸では国民党と共産党とで激しい戦争が続いていて、米国は国民党を支援し沖縄を中継して軍事物資を輸送していました。

■写真解説

久場崎にある引き揚げ者の碑

民政府のあったところ

みなと村

 

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更新日:2008年3月18日