■解説文
恩師の志喜屋知事を補佐し翻訳を専任としていた比嘉は官房翻訳課長に抜てきされ、日本本土からの帰還者の受け入れをはじめ、通貨の切り替え、賃金制の実施、電話回線の設置、予算の編成など多くの困難な問題を処理するためその責務も重要さを増していきました。沖縄民政府は官房翻訳の課を部に昇格させ、部長に比嘉秀平を起用し責務はより重くなっていきました。 沖縄における米軍政府は、それまでの海軍から陸軍に移管され、所在地も具志川村栄野比から玉城村親慶原に移しました。沖縄民政府も知念地区に移動し知事以下民政府のスタッフも、建てられた職員用の住宅に移動しました。(いわゆる「知念民政府」) それまで、米軍要員が作業していた那覇軍港の荷役作業を沖縄住民にやらせることになり、責任者として国場幸太郎が選ばれ、作業員たちの住まいとしてツーバイフォー住宅が建設されみなと村ができました。港湾の仕事はきつく、慣れていない人が多かったこともあり作業は進まず、能率が上がらないのを不満とした米軍政府は全島の食糧売店を閉鎖する指令を発しましたが、労務の提供に協力することで事態を打開し閉鎖はされずにすみました。そのころ中国大陸では国民党と共産党とで激しい戦争が続いていて、米国は国民党を支援し沖縄を中継して軍事物資を輸送していました。 |