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読谷人物伝

軍政下の苦悩 比嘉秀平

1.悲運な少年時代

2.学業に励み教師に

3.三中時代

4.戦争への協力

5.捕虜となって

6.諮詢会での活躍

7.志喜屋知事の片腕として

8.社会情勢の変化の中で

9.初代の任命知事

10.屈辱の4・28

11.土地とりあげと島ぐるみ闘争

12.主席として苦悩の中で

祖国復帰の父 屋良朝苗

 

9.初代の任命知事

■解説文

 沖縄民政府は、沖縄群島における住民側の中央執行機関として設置されましたが、新体制発足後まもなく解消されました。米軍政府は1950年1月に布令を発し「米軍政府に助言する」ことを目的とした「琉球諮詢委員会」を設置し、比嘉はその委員長に任命され「委員会を代表して全面的に米軍に協力し、軍民共同の目的達成に最善を尽くしたい」とあいさつしました。沖縄の長期にわたる軍事占領を続けるため米軍政府は、住民の要求する選挙を実施し、琉球諸島を4つに分割した沖縄本島・宮古・八重山・奄美の四群島として各群島政府における各知事・民政議員を選出することにしました。民主主義体制を願い、要求してきた住民は戦後始めて自身の手で知事・議員を選出したのです。
 そのころ、日本国と米国間では講和条約の話し合いがつづけられ、外部から(共産主義)の脅威をたてまえに米国の戦略的利益を確保するため、52年4月28日北緯29度以南は日本から行政分離されることになりました。(53年に奄美・72年に沖縄が返還)極東軍司令部は従来の米軍政府に代わって米国民政府を新しく設置することを指令し、沖縄に臨時の中央政府を設立、主席に比嘉秀平を任命しました。群島政府は52年4月、琉球政府の発足にともない業務は移管され、住民意思を反映することのできる政府組織は短い間で終わりをつげました。

■写真解説

アメリカ軍による沖縄の統治機構

群島政府地図

臨時中央政府主席の辞令を受ける比嘉秀平

 

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更新日:2008年3月18日