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読谷人物伝

軍政下の苦悩 比嘉秀平

1.悲運な少年時代

2.学業に励み教師に

3.三中時代

4.戦争への協力

5.捕虜となって

6.諮詢会での活躍

7.志喜屋知事の片腕として

8.社会情勢の変化の中で

9.初代の任命知事

10.屈辱の4・28

11.土地とりあげと島ぐるみ闘争

12.主席として苦悩の中で

祖国復帰の父 屋良朝苗

 

11.土地とりあげと島ぐるみ闘争

■解説文

 講和条約発効から1年が経つと比嘉主席は「全面的祖国復帰の早急な実現に総力を結集して」いこうと、談話を発表しました。そのころ米国民政府は住民投票で選ばれた議員にたいして当選無効を指示してきました。沖縄の植民地化に反対する住民たちは「土地収容令」に対しても強く反発し島ぐるみのたたかいに広がっていったのです。基地経済以外で農業は住民にとって大切な生活の糧でしたから、農地の接収は命にかかわる大問題でした。当時、米国のリチャード・ニクソン副大統領が来沖し「共産主義の脅威が続く限り沖縄に軍事基地を保持し・・・米国だけでなく、世界、とくにアジアの自由諸国の防衛基地として重要」との談話を発表、軍事的に長期に保持するという強い姿勢が示され、住民の<日本復帰>への思いは無視されました。また、アイゼンハワー大統領は「沖縄の軍事基地は無期限に使用する」と表明、軍用地問題は大きなうねりとなって住民の心をゆさぶりました。
 この問題に対して、民主・社大・人民・無所属の与野党ともに共同歩調で立法院定例議会で布令109号廃止を可決しました。しかし、米国民政府は、小禄・伊佐浜・伊江島で農耕にたよって生計をたてていた農民たちの悲痛な叫びを無視し、ブルドーザーの前に座り込む人々に銃剣を突き付け田畑を敷きならしていったのです。早朝から現場に駆け付けた比嘉主席は「米軍の連中は、あんなことをするのか。胸を突きさされる思いで非常に残念」と憤っていたと伝えられています。行政府・立法院・市町村長会・軍用地連合会は四者協議会を結成し《土地四原則》を掲げ米軍への抵抗を示し、その炎は島ぐるみの闘いに広がりました。

■写真解説

島ぐるみのたたかい

沖縄の位置(太平洋の要石)

おもな土地接収

 

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更新日:2008年3月18日