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読谷人物伝

軍政下の苦悩 比嘉秀平

1.悲運な少年時代

2.学業に励み教師に

3.三中時代

4.戦争への協力

5.捕虜となって

6.諮詢会での活躍

7.志喜屋知事の片腕として

8.社会情勢の変化の中で

9.初代の任命知事

10.屈辱の4・28

11.土地とりあげと島ぐるみ闘争

12.主席として苦悩の中で

祖国復帰の父 屋良朝苗

 

4.戦争への協力

■解説文

 1944年10月10日にアメリカ軍機による空襲があり那覇は焼き尽くされ、読谷村では北飛行場が爆撃され犠牲者をだしました。アメリカ軍機は島々全てを空中写真で撮影し、地上戦の準備をしました。年が明けると、アメリカ軍が沖縄へ進攻することが確実な情勢となり、住民たちにとっては不安と緊張が交錯し、山原への疎開命令がだされても、襲いかかる砲弾の嵐がどれほどのものであるのか想像も出来ずにいました。それでも学校では3学期の諸業務におわれ、比嘉教頭は生徒を日本軍に協力させることや校務に忙しくしていました。そうした状況のなかで県立水産高校の校長にと栄転の話が伝わってきました。比嘉には学歴・経歴・指導力・人格ともにその条件は備わっていましたが、校長への道を断りました。戦前の軍国主義時代の日本の教育・天皇中心の国家主義のなかでは片腕であることは昇進への道を困難にしていたこと、多くの教師が兵士として軍隊に動員され教師不足となっていた時代であったことを比嘉自身認識していたようです。
 硫黄島(東京都)を占領したアメリカ軍は3月下旬1400隻の戦艦で沖縄本島を包囲し、上陸に備え砲弾を打ち込んできました。三中では急いで卒業式をすませ、上級生を主体に鉄血勤皇隊を編成、二隊に分かれ日本軍とともに守備につきました。本部半島の南部にある真部山の隊に比嘉は学徒隊147名とともに配置されました。教え子たちをかばいながら指揮をとっていたことは生徒たちにも伝わっていました。

■写真解説

10・10空襲で燃え上がる那覇のまち

せまりくる沖縄戦

北部戦線

 

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更新日:2008年3月18日