■解説文
湿った梅雨空がまだつづく1901(明治34)年の6月7日明けがた、読谷山村楚辺の比嘉秀實・ウシに三人目の男子が誕生、名を<秀平>と命名しました。楚辺はスビクラガー(楚辺暗川)を水源地としてサツマイモやサトウキビなどの畑作中心の地域で、広大な平地があり、豊かな農家が多かったところです。秀平の家は中農家で、両親を柱に家族が力を合わせてキビ作に励んでいました。秀平には六人の兄妹がいましたが、農業だけでは生計をまかなうことができず兄二人はハワイに移民することになりました。当時移民を希望する人たちの中には徴兵されることを嫌い、外国に働きにいった人たちもいたようです。 そのころの農家の子供たちがそうであったように、秀平もキビ刈や牛や馬の世話など、幼いときから親を助けていました。ある日サーター車(きびの圧搾機)に入れた数本のキビが機械にひっかかってしまい、それを引っぱり出そうとしましたがサーター車を引く馬の力は思いのほか強く、あっと言う間もなく秀平の柔らかな右腕は鉄輪に引き込まれ挟まれてしまいました。そばにいた父親が馬にムチをして機械を止めたときには秀平の右腕は血に染まっていました。右腕は骨まで砕かれていて地獄のような苦しみは9歳の少年にはあまりにも酷い出来事でした。当時、外科の病院は村内にはなく嘉手納まで馬車を走らせ伊波医院で右腕を切断する手術を受けました。一時は生命まで危ぶまれた秀平少年は、医師の冷静な措置と治療で傷は回復し元気をとりもどし、片腕になっても学校に通いながら、両親を手伝うようになっていました。そんな秀平少年の姿を村の人たちは温かな眼差しで見守りました。秀平少年は将来の自分自身をみつめ、学問の道にすすむことを決意し一生懸命勉強をしました。 |