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読谷人物伝

軍政下の苦悩 比嘉秀平

1.悲運な少年時代

2.学業に励み教師に

3.三中時代

4.戦争への協力

5.捕虜となって

6.諮詢会での活躍

7.志喜屋知事の片腕として

8.社会情勢の変化の中で

9.初代の任命知事

10.屈辱の4・28

11.土地とりあげと島ぐるみ闘争

12.主席として苦悩の中で

祖国復帰の父 屋良朝苗

 

8.社会情勢の変化の中で

■解説文

 米軍政府の指令で設置された沖縄議会は、戦後の混乱した社会秩序の回復、衣食住など生活の安定、医療施設の整備、住民の旧居住区への移動など重要な役割を果たしていました。1948年8月の議会で問題がおこり、それまでの知事の諮問機関としての議会ではなく、議会本来の機能と住民に責任の持てる沖縄民政府の樹立を要求する態度を表明したのです。米軍政府は全面的に拒否し議会と対立が続くなか、志喜屋知事は体調をくずし比嘉たちを心配させました。沖縄の政治的・社会的混乱を長引かせないために比嘉は一生懸命で、こうした困難にぶつかったことで比嘉自身が政治的体験を積んでいったのかもしれません。翌年、米軍政府は指令によって沖縄議会を解散させ、新しい議会を設け、新議員を選出しました。 
 1949年9月には中国大陸に毛沢東の指導する中華人民共和国が成立し、米国の支持する国民党の立場は微妙になりました。極東における戦略的地位を確保するために沖縄住民の不満を取りのぞき、その心をつかむ必要に迫られた米軍政府は、琉球復興金融基金を創設したりするなど新しい措置を打ち出してきました。沖縄議会も新しい機構に再編され、それまで渉外部長を努めていた比嘉秀平は官房長に抜擢されました。それまでも渉外担当者として軍民政府間の業務を処理してきましたが、官房長に就任してからは軍民の重要会議には正副知事とともに出席し重要政策の立案にも参画、沖縄民政府のスポークスマンなど、その活動の幅を着実に広げていきました。

■写真解説

沖縄議会

移動の誓願

ガリオア資金で建てられた校舎

 

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更新日:2008年3月18日