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読谷村のプロフィール

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昔の読谷村−1

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文化村づくり−1

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紅イモで村おこし−1

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人材づくりと福祉−1

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読谷まつり−1

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読谷100景

読谷村の主な史跡

読谷村の主なイベント

 

読谷村の主な史跡

比謝橋
昔から読谷の表玄関として、親しまれてきたのが比謝橋。琉球王国時代は、中山(首里を中心とする勢力圏)と北山(国頭地方)を結ぶ重要な橋だった。その形状は、石造五連アーチ。戦後、米軍による道路拡張工事により破壊されたことは、大変惜しまれる。

喜名番所
「番所」とは、今日の役場にあたる。かつて約500年の間、読谷の行政・文化の中心だった。建造物は沖縄戦で焼失した。喜名は、本島北部への旅の途中、宿場としても賑わったところである。1853年にこの地を訪れたペリー提督一行のハイネが、番所の絵を描き残している。

座喜味城跡
世界遺産に登録された、十五世紀の城跡。標高120mの小高い丘にある。独特のアーチの形状、石積み全体のゆるやかなカーブが、やさしい雰囲気を醸し出している。日本軍の高射砲陣地として戦禍にみまわれ、戦後は米軍のレーダー基地として使用された。

赤犬子宮
琉球古典音楽の始祖とされる、赤犬子(あかいんこ)を奉っている。赤犬子は、十五世紀頃、各地の有力者のために、縁起をかつぐ「おもろ」を謡った人物とされ、本島各地や周辺離島にまで出かけて行ったとされている。旧暦の九月二十日には、奉納演奏が行われる。

阿麻和利の墓
阿麻和利(あまわり)とは、十五世紀の勝連城主。鬼大城(うにうふぐしく)によってほろぼされたとされているが、その墓が読谷に存在するのは不思議である。阿麻和利が、出身地である現嘉手納の近くまでなんとか逃げてのびたというのであろうか。

渡具知木綿原遺跡
沖縄の埋葬の証拠となった、化石人骨が出土した遺跡。昭和52年の発掘調査で、沖縄初の箱式石棺墓が発見された。沖縄原始社会の墓制についての貴重な資料となり、九州弥生文化との交流が想定され、沖縄先史文化の研究に重要な発見となった。

梵字碑
仏教とともに渡来したインドの古代文字が刻まれている。「阿・毘・羅・吽・欠」の五文字で、宇宙の全パワーが結集され、大変な呪力が秘められているとされる。航海の無事を祈願したものと思われるが、建立された年代や詳細については不明である。

 

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更新日:2008年3月18日