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常設展示室

第1展示室:読谷村と沖縄戦

第2展示室:抑圧された占領下の時代

第3展示室:基地の中のむらづくり

第4展示室:基地の中に打ち込んだ文化のくさび

第5展示室:平和村づくりの推進

第6展示室:21世紀グランドデザイン

広く

深く

テーマ1:深く −琉球処分−

テーマ2:深く −帝国主義の展開−

テーマ3:深く −第一次世界大戦と日本の情勢−

テーマ4:深く −アジア・太平洋戦争への道−

テーマ5:深く −第二次世界大戦−

 

4.学童疎開

■解説文

 1943年ごろには、都市近郊の農産物の買い出し制限が始まりました。都会に住む人々は農産物を着物などと交換したりして食糧を得ていましたが、食糧が不足してくると値段はどんどん上がり「闇」価格が公定価格の何倍にもなりました。配給の物資は遅配・欠配が多くなり庶民は食糧も衣類も手に入らなくなっていきました。町では「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」という看板が掲げられ不服を言うこともできず、配給の品を手に入れるため長い列ができたのです。それでも報道される戦況は真実が伝えられず、日本は必ず勝と国民は信じていたのです。
 44年6月、サイパン島が陥落すると、そこの飛行場からアメリカ軍の攻撃機B29による日本本土への空襲が可能になったのです。政府は都会の学校の生徒たち(国民学校初等科高学年)を田舎に集団疎開させることを決定しました。田舎に縁故疎開できる生徒と親元に残る生徒以外は集団で地方の各地に出発しましたが、疎開先の食糧事情も厳しく、飢餓に加えてホームシックやシラミの大発生など生活環境は悪く、ひもじさをしのぐため蛇や蛙も食べたと語られています。
 全国で約43万人が移動させられたといわれていますが、沖縄県ではアメリカ軍との決戦にそなえ、足手纏いになる学童を九州・台湾に疎開させることになりました。その中でも第二陣として出発した「対馬丸」は那覇地区の疎開学童・教師など1661人を乗せて九州に向かうとちゅうアメリカ軍の潜水艦から魚雷攻撃をされ海に沈みました。生存者は300人あまりと言われています。

■写真解説

本土空襲

宮崎県へ疎開した学童

対馬丸

 

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更新日:2008年3月18日