■解説文
敗戦まじかな日本に原子爆弾(原爆)が投下され、数万の市民が一瞬にして焼かれました。原爆の製造はアメリカ主導でおこなわれ、極秘のうちに巨費と多数の科学者や技術者たちが投入され、1945年7月には3個の爆弾が完成しました。その一つは14日にニューメキシコ州の砂漠で爆発実験をし成功しました。原爆の被害の大きさとその脅威に使用に反対する科学者たちもいましたが、残る二つは日本の広島と長崎に投下したのです。 45年8月6日午前8時15分、広島市の中心太田川の下流がつくる三角州の中島地区にアメリカ軍がウラン爆弾を投下しました。市民は学校や会社にむかっていたのです。一瞬の閃光と巨大な茸雲(ピカドンとよばれた)は、街を焼き、人を焼き、肌を焼き、肉や骨をとかしました。爆心地は平坦な市街地で遮るものもなく一瞬のうちに街は壊滅し、全焼家屋は6万戸以上におよび、死者は7万人〜20万人といわれています。 その3日後の9日には午前11時すぎ長崎市にプルトニューム爆弾が投下され7万5千人の命が奪われたといわれています。九州の北部の工業地帯に投下する計画でしたが雲におおわれていたため、長崎市に変更になったようです。9日の長崎の空は快晴だったのです。広島のときと同じように午前2時すぎにテニアンの飛行場を出発した原爆搭載機(B29)は午前8時には九州の空を飛んでいました。3時間がすぎた午前11時に長崎に原爆を投下しましたが、燃料ぎれとなり沖縄の読谷山の飛行場に着陸、小休止をとり燃料を補給しテニアンに帰着したのです。 ノーモアヒロシマ・ノーモアナガサキの声はいまも全世界で叫ばれています。 |