■解説文
長引く戦争で莫大な戦費と兵力を使った日本は、戦局の悪化にともない経済も破綻していきました。国民の兵役は20歳(現役)から40歳(召集)まででしたが『兵役法』を改正し、1943年11月には45歳までに延長になりました。6月には拡大する戦線にたいして『学徒戦時動員体制確立要綱』を閣議で決定し、本土決戦のための軍事教練と勤労動員を徹底し、女子生徒や子供たちまで生産力の増強と労働力不足を補うため工場や農家に動員しました。14歳以上の未婚女性を勤労挺身隊などの名称で工場で働かせたのです。それまで大学・高専の学生は満26歳まで徴兵を猶予していましたが、内閣の定例閣議で「廃止」を決定、議会の承認もないまま学生たちも戦場に駆り出されました。43年の10月には、東京の明治神宮外苑陸上競技場(現・国立競技場)で文部省主催の「出陣学徒壮行会」が開かれ、東京とその近県の学生たち(理工系学生は延期)は在席のまま制服にゲートルを巻き銃を肩にして家族や友人、動員された女学生の歓声と拍手に送られ戦場にむかいました。学徒兵の中には特別攻撃隊(特攻)に志願して若き命を砲弾にして死んでいった人たちもいるのです。六千人の若者の命は悪化した戦局に成果を与えることもなく、特攻の攻撃は敗戦のときまで続いたのです。 沖縄戦に動員された鉄血勤皇隊にたいして表彰状が用意されましたが、その日付は45年の7月8日になっています。アメリカ軍が南部掃討作戦の終決宣言を発したのが2日ですから、本土決戦にむけて全国の学徒たちを奮い立たせるためだったのでしょうか。 |