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常設展示室

第1展示室:読谷村と沖縄戦

第2展示室:抑圧された占領下の時代

第3展示室:基地の中のむらづくり

第4展示室:基地の中に打ち込んだ文化のくさび

第5展示室:平和村づくりの推進

第6展示室:21世紀グランドデザイン

広く

深く

テーマ1:深く −琉球処分−

テーマ2:深く −帝国主義の展開−

テーマ3:深く −第一次世界大戦と日本の情勢−

テーマ4:深く −アジア・太平洋戦争への道−

テーマ5:深く −第二次世界大戦−

 

4.大正デモクラシー

■解説文

 明治33年の大日本帝国憲法では天皇に絶対的な権限を認め専制体制をつくり民権運動など反政府勢力をはばんできました。大正時代になると美濃部達吉の「天皇機関説」が発表され、天皇は国家の最高機関としての統治権をもつにすぎず、主権は国家にあると主張しました。帝国憲法に妥協しながら絶対君主制を少しでも立憲君主制に近づけようとする思想は議会政治・政党内閣制を要求する市民たちの間に広まってゆきました。自由主義的思想が国民の間に広がり「民本主義」とよばれました。人民に主権があり、人民のために政治はおこなわれるべきというデモクラシー思想(普通選挙・政党内閣制をかかげた民本主義の思想)は都市の中産階級の間に共感を持たれ、広がってゆきました。1917年にロシアで社会主義が勝利するとシベリア進出をねらう日本は翌年出兵し、連合国も対ソ干渉の軍事行動を開始しました。ソビエト人民の抵抗で敗北した日本は莫大な戦費を使い、国内では米の不作と買い占めで米価が値上がりし、庶民の手に届かなくなりました。富山県の沖仲仕(港湾作業員)をしていた漁村の女性たちから始まった米騒動は全国に広がってゆきました。大衆組織も政党の指導もなく無名の人びとが立ちあがった歴史的な大闘争となりました。当時の内閣は総辞職し、政党内閣を産み出しました。またロシア革命の波は日本の労働者や植民地である朝鮮にも影響をおよぼしました。(三・一蜂起)
 米騒動ののち日本の労働運動は発展し、労働争議・小作争議の件数も急速に増えてゆき、組織化されてゆきました。民主主義を求める学生や婦人の組織も活発になりました。三万人の会員をもっていた「友愛会」は1919年の大会で「大日本労働総同盟友愛会」に改め、国際労働機構(ILO)の提案に沿い労働組合の自由・最低賃金制・男女同一労働同一賃金8時間労働・夜業禁止など労働者の切実な要求20項目を掲げました。また女性たちも「新婦人協会」を組織し女性の政治参加を禁止していた治安警察法第5条を改正させました。
 戦後恐慌の波は日本中へ波及し株式が大暴落。生糸・綿糸などの価格も三分の一に下落し、銀行・会社なども大打撃をうけ、工業・鉱業の生産高は減少し輸出高も40%減となりました。資本家は賃下げ、首切り、工場閉鎖できり抜けようとしたため労働争議も減少しました。そんな中で第一回のメーデー(労働者の祭典)が東京の上野公園で行われ、「1万人の労働者が集まり万国の労働者とともに労働階級の解放のため」に闘うことを宣言し警官の検挙に抗してデモ行進しました。
 1921年当時の首相原敬が東京で暗殺された直後ワシントン会議が開かれ日本は軍縮を余儀なくされ国内の世論も反軍国主義の機運がもりあがってきました。社会主義運動が高まる中「日本農民会議」が結成され全国で活動が活発になっていきました。

■写真解説

シベリア出兵

米騒動の発生

三・一独立運動

 

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更新日:2008年3月18日