■解説文
1923年2月、東京で約10万人が普通選挙法(普選)を要求して大示威行進しました。国民の幅広い層に運動は広がっていき政府も普選がさけられなくなってきました。政府は議会に過激社会運動取締法・労働組合法・小作争議調停の三法を提出し、支配者階級が普選によって不利益にならないようにしようとしました。労働者階級は、政治的・国際的連帯の自覚を認識し、婦人たちは最初の「国際婦人デー」の集会を東京でひらきました。また、学生たちは軍国主義教育に反対し学生大会をひらき、各大学で社会科学研究会がつくられました。 政府は治安警察法第28条で、日本共産党の指導者を多数検挙し打撃を与え、国民に恐怖をうえつけました。その年(23年)の9月におこった関東大震災の混乱に乗じ、朝鮮人が各地で暴動をくわだて、その背後に社会主義者が変革をくわだてているというデマを通信所をつうじて全国に伝えました。朝鮮人・中国人の多数と労働組合の指導者らが殺害されました。政府はそれまで労働者階級の反対で成立させることができなかった過激社会運動取締法の内容を、治安維持法として緊急勅令で公布しました。そのため震災の混乱によって虐殺された人々の記事が新聞に掲載されませんでした。こうした状況下で労働運動は右傾化することで生き延びようとする一方で、日本を「世界の大小国家の上に君臨する最強なる国家」とすることを主張する右翼団体のうごきも活発になりました。 |