■解説文
○人頭税 宮古・八重山では15歳から50歳までの男女にたいして頭わりに課せられた税金の制度・人頭税がありました。人頭税は以前からありましたが、確立されたのは1637(尚豊17・寛永14)年以後といわれています。 ○人頭税の内容 検地により総石高出され税額(物納)が決められましたが、生産額を実際の倍以上に見積もって石高をきめたといわれ人頭税の過酷さを伝えています。人口調査によって税額に増減が有りましたが、1659年以後は租税額が一定となり、1711年からは、年齢によって課されました。賦課の方法は、村(現在の字)は上・中・下の三級に、人は年齢によって上(21〜40歳)・中(41〜45歳)・下(46〜50歳)・下下(15〜20歳)の四級としました。上村上男女を14、上村中男女・中村上男女を12というように段階別に賦課されたのです。税の免除をうけた人たちも多く(役人・神女・船頭など)、農民の肩にはその分まで課せられたのです。貢租のほかに民費の負担もありました。 ○人頭税制下の農民のくらし 農民たちは耕作地の耕作制限や強制作業など管理され、生産物の大部分は貢租として収奪され、命をつなぐだけの生活を強いられていました。こうした生活は明治時代になっても続いていました。1882(明治15)年、沖縄県の第二代県令(県知事)の上杉茂憲(うえすぎもちのりー米沢藩出身)が離島を巡回したときに記録したものを見てみると「衣は芭蕉、食は蕃薯、住は膝を入れるぐらい、・・・島で富豪といわれる者でも貢納以外は米粟20俵ぐらいを持ち、衣装は男で3枚ぐらい、女で5〜6枚を持っているが村のなかでもまれにしかいない(士族は別)。生活の苦しい人たちは、米粟2〜3升、衣装は男女ともに身にまとうもの1枚あるだけで、着替えもない者がもっとも多い」とあります。農民にとって苛酷な税の取り立ては、生活が窮乏しその重圧で自殺者や間引きをふやし、天災には餓死者をだしました ○農民と人頭税廃止運動 沖縄県になってから、他県から官吏・商人・旅行家たちが訪れました。宮古島を訪れた新潟出身の中村十作は農事試験場の精糖技師城間正安と出会い、農民運動推進に力を合わせることになったのです。城間は那覇の出身ですが農事試験場で新しい知識と技術を学び、製糖法の改良・研究の技術を見込まれて製糖教師として、宮古の農事試験場に赴任しました。城間は甘藷の植え付け・精糖の指導に、30余村を巡回していました。城間は農民たちと苦楽をともにし、自らも土地をもとめて甘藷の栽培をしました。人頭税廃止運動で農民たちが力を合わせることができたのも、城間が農民たちに信頼されていたことと、明治前期・民権運動の広がりのなかで、東京で学問をしたた中村の知識が運動を推進させる力になったのだと思います。 農民たちは 1) 役人の数を減らす 2) 人頭税を廃し地租とする 3) 税を金納にすることなどを、島役所・沖縄県に請願しましたが、旧制改革の壁はあつく行き詰まっていました。中村が宮古に来て城間に出会ったことで、国会へ請願する方法が見つかったのです。代表者の旅費は農民たちが出しあい、足りない分は個人のお金を出し上京したのです。 1893(明治26)年、上京した代表者たちは、新聞社をまわり宮古の実情を世論に訴え、国会に「沖縄県宮古島島費軽減及島政改革請願書」を提出しました。内務省や大蔵省よる行政の対応もあり、貴族院・衆議院で可決され(1894年)沖縄県の県政改革は、政府の政策に取り入れられることになりました。 1903(明治36)年1月、「地租条例」が公布され、宮古・八重山の島民は260年以上におよぶ「人頭税」という苛酷な税制から開放されたのです。沖縄県が設置されてから25年がたっていました。封建的な身分関係・土地にたいする諸制限がなくなり、作付けは自由になり砂糖の生産が増大しました。 |