■解説文
廃藩置県の通達(1879年)で沖縄県が設置されると、明治政府は「諸制度は、特に改正を命じたもの以外すべて従来通り」の方針をうちだし、近代的改革が推し進められた〈内地〉とは異なり、旧慣(昔からのしきたり・旧例)を残したのです。 このことは、旧地頭層(有禄士族)の「家禄」を置県後も保障し、沖縄県内の不平士族たちを懐柔することによって、脱清人(琉球処分に反対し清国に救援を請願した人)たちの活動をおさえ、日中間の紛争を拡大させないための方策としたのです。 王府時代以来、農民統治の末端の地位にあった地頭代以下の地方役人層には、置県後もその地位と特権がすえおかれました。明治初期に活発に勢力を広げていた国内の自由民権派と不平士族が手を結ぶことを危惧し、地位と特権を認めることで置県後の混乱をできるだけ少なくしようとしました。 しかし、農民支配・収奪の体系である土地制度、租税制度および地方統治のための〈内法〉はそのまま存続し、農民のおかれている状況は依然として以前のままでした。数百の地頭層(有禄士族)は、支配の座からおろされはしましたが、旧来の経済的特権を保持していました。それは農民の犠牲の上になりたっていたのです。 〈内地〉では、各地で農民一揆などが多発しましたが、沖縄では旧慣が温存されたことで民衆は長期にわたり、大きな犠牲を強いられました。土地制度・租税納入制度・現物納・買上糖などの制度や宮古・八重山で行われていた人頭税もそのまま残されました。県民のほとんどが農民でしたから商品経済の発展はおくれ、苦しい生活は改善されず、農民の階層分化がおこったのは、土地整理事業を終えてからです。士族への「金禄」の支給は1909(明治42)年まで続きました。 |