■解説文
12世紀ごろになると、沖縄各地にあらわれた有力者(按司)たちは集落間における抗争を繰り返しました。各地で統率者・支配者が権力を持ち、沖縄本島では、城塞としてのグスク(城)もより強固になっていきました。南山・中山・北山の各地で強力な支配者が〈世の主〉として周辺の按司たちを従えました(三山時代)。佐敷の按司であった尚巴志は15世紀はじめ、三山を統一して首里に城を築き父親の思紹を第一代の王としました。第一尚氏王統のはじまりです。尚巴志は城の近くに池をほり、各地の花木を植え景観を整え、国中の里数を改定し、各間切に番所を設置したと伝えられています。また、広くアジアの国々や、朝鮮・日本とも交易し文化的にも影響をうけました。東アジアの海を渡り琉球王国として花開いた時代です。1470年にクーデターがおこり新しい王朝が誕生しました。(第二尚氏王統)3代目の尚真王のころ北は奄美大島、本島周辺の島々、南の宮古・八重山地域まで支配を広げ、政治的・文化的に包括していきました。第二尚氏王統7代尚寧の時(1609年)3000の薩摩軍が琉球に侵攻し首里城を占拠、国王・重臣を捕虜にして薩摩に送り、琉球王国を薩摩や徳川幕府の従属国としました。1872年、明治政府が琉球処分を行い沖縄県を設置するまで、中国から冊封をうけ朝貢貿易をしながら、内側では薩摩に支配されていました。政治の中心地として、王の居城として首里の丘に建ち続けた首里城も明治時代以降老朽化していましたが、1933年国宝に指定され大修理が完了しました。1945年の沖縄戦では、城の真下に司令部壕が堀られアメリカ軍の集中砲火をあびて、すべての構築物は消失し、城壁の大部分は破壊され、周囲の草木も焼き尽くされました。地面の下に残る遺構と頑強に積まれた城壁の一部だけが残され〈御城(ウグシク)〉と呼ばれていたころの姿はなく廃墟と化しました。アメリカ軍政下に建てられた琉球大学が移転し、1992年に現在の首里城が復元され、2000年に首里城跡として「世界遺産」に登録されました。 |