■解説文
1871年、宮古島の年貢運搬船(役人ら69人乗船)が積み荷をおろし那覇からの帰路台風に遭い台湾南部に漂着、54人が原住民に殺害されるという惨事がおこりました。3人は溺死し、12人は現地人に救助されました。この殺害事件に対して、1874年、日本政府は西郷従道(隆盛の弟)を台湾蛮地事務都督に任命し、3650余人の兵をもって台湾に出兵させようとしました。しかし、米・英・露などの公使から干渉され、政府は征台中止をきめました。政府の出兵中止命令に従わず、西郷は独断で軍艦4隻を率いて出港し、台湾に上陸し現地の住民を討伐しましたが、マラリアに感染したり、原住民の抵抗などにより戦闘は困難となりました。政府は同年10月、大久保利通を全権大使として北京におくり、日清(中国)両国間で北京議定書を締結しました。日本国は清国に50万両(10万両は遭難者にたいする見舞金)の賠償金を支払わせ、琉球の民を〈日本国属民〉と表記することで、条約上琉球が日本の版図に入ることを示し、撤兵したのです。日本国内で行われた廃藩置県(1871年)以後も琉球は、従来どおり清国との朝貢関係を維持していましたが琉球王国を琉球藩(1872年)とすることで、台湾出兵を正当化させ、清国に琉球を日本の領土として認めさせたのです。近代日本が領土拡張へ海外出兵をした最初のことです。 |