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常設展示室

第1展示室:読谷村と沖縄戦

第2展示室:抑圧された占領下の時代

第3展示室:基地の中のむらづくり

第4展示室:基地の中に打ち込んだ文化のくさび

第5展示室:平和村づくりの推進

第6展示室:21世紀グランドデザイン

広く

テーマ1:広く −琉球処分−

テーマ2:広く −帝国主義の展開−

テーマ3:広く −第一次世界大戦と日本の情勢−

テーマ4:広く −アジア・太平洋戦争への道−

テーマ5:広く −第二次世界大戦−

深く

 

2.国境の画定

■解説文

 明治政府は、それまで明確でなかった国境を画定するため、近隣諸国との外交を進めていきました。北方の樺太(サハリン)と千島列島には、日本とロシア人などが雑居していました。当時、駐露公使であった榎本武揚はロシアと交渉し、1875年「樺太・千島交換条約」を結び、日本が樺太全島をロシアにゆずり、ウルップ島より北をふくめた全千島列島を日本が領有することが決められました。西の九州と朝鮮半島の間にある対馬は宗氏から朝鮮との外交権をとりあげ、南の小笠原諸島はその領有と統治を各国の公使に通告しました。 
 南西の沖縄は、当時琉球王国を形成し清国(中国)と冊封朝貢関係にありました。1871年におきた台湾遭害事件で琉球国の主権は日本国にあることを主張し、翌年、琉球藩を設置しました。74年台湾に出兵・占拠し、同年10月日清両国間で北京議定書を締結し日本政府は賠償金を受け取り、台湾から全軍をひきあげました。議定書には、琉球の民を〈日本国属民〉と表記し、琉球が日本の版図にあることを日清両国が認めたことになりました。琉球の人々の頭のうえを飛び越して条約は結ばれたのです。79年には軍隊と警察を率いて首里城を占拠し、沖縄県の設置を通告しました。

■写真解説

国境の画定

樺太・千島交換条約による日本とロシアの国境

首里城正殿に立つ熊本鎮台分遣隊の歩哨

 

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更新日:2008年3月18日