■解説文
脱清人(だっしんにん) 明治新政府は国境画定をすすめながら、南西にある琉球王国は薩摩藩から新生なった鹿児島県の管轄下においていました。政府は台湾事件(1871年)で琉球を日本の所轄として明らかにする好機としたかのように、琉球王尚泰に〈維新慶賀使節〉を上京させるよう促してきました。73年、王府は伊江王子を正使として4人の慶賀使節を派遣しました。一行が天皇に謁見したさい「国王尚泰を藩王に、琉球国を藩とする」という詔をうけましたが、琉球側は、鹿児島県から天皇に替わっただけであると認識していました。すでに日本では廃藩置県によって藩制はおこなわれていませんでしたが、琉球と清国(中国)の歴史的つながりを考え、政府はすぐには県にしませんでした。琉球では王国が安泰だと思い喜んでいた人たちもいたようです。 74年、琉球藩の管轄が外務省から内務省に移されると、内務郷大久保利通は琉球処分官に松田道之を任官し琉球に派遣しました。75年、松田は王府の高官に政府の琉球処分方針7項目を伝えました。清国との冊封・朝貢関係の禁止、藩制を日本の府県に準じて改正、謝恩のため藩王の上京などが言い渡され、王府は事の重大さに驚き、処分にたいして政府に嘆願と交渉を繰り返しましたが、受けいれられませんでした。帰藩を命じられましたが、駐日清国公使に窮状を訴えたことで、琉球問題は日清間の外交問題に発展しました。琉球藩吏たちは、かって琉球と条約を結んだ国々の英・米・蘭などに密書を送り、琉球国の危機を訴えたので波紋は広がりました。 政府の琉球処分に反対する琉球の士族たちのなかでも動きが活発となり、清国に政治亡命(脱清亡命)した人々もいました。幸地朝常や林世功らは清国に窮状を訴えましたが、幸地の足取りは不明のままです。林世功は後に分島増約案が清国との間ですすめられていることを知り抗議の自殺をとげました。これら清国に亡命した人のことを脱清人とよんでいます。 79年、政府は4年間かけた琉球処分に結着をつけるため、軍事力や警察権力を背景に首里城で琉球藩を廃して沖縄県を設置、首里城を明け渡し藩王は上京することなどを言い渡しました。沖縄県設置後も、琉球王国復活のため清国政府に請願を繰り替えしました。浦添朝忠ら42人が清国へ亡命し請願をしましたが、その足取りは不明のままです。 分島増約案 世界漫遊中のアメリカ前大統領グラントが清国に立ち寄ったのは、琉球処分が強行された1879年の5月でした。清国政府は駐日公使から、日本が琉球に対して進めていた処分問題の報告をうけ、日本政府に抗議していましたが、日本政府は内政干渉だとしてうけつけず、この問題はゆきづまっていました。清国はグラントに琉球問題の調停を依頼しました。来日したグラントは琉球問題の解決のため日本政府に〈分島増約〉案をしめし、話し合いで解決することを勧めました。この案は、宮古・八重山を清国に引渡すかわりに、日清修好条規を改正して、欧米なみに清国国内で通商の権利を得ることでした。日清両国で妥協をみて調印を待つだけでしたが、清国政府はこれに調印せず、この案は成立しませんでした。調印されていれば、日本の国境は那覇の南西に引かれ、宮古・八重山の人民や土地は清国に管轄が移されるところでした。当時の沖縄の県民も、日本の国民も全く知らないところで交渉がおこなわれていたのです。 |