■解説文
1979年11月、アメリカ軍の夜間パラシュート演習が実施される旨、那覇防衛施設局から読谷村に電話連絡がはいりました。アメリカ軍は度重なる事故を引き起こしているにもかかわらず無神経にも再度夜間演習を実施すること、しかもパラシュート落下事故にたいし「測定地点に落下したのに、誰かが民間地域へ持ち去った」と発表して、読谷村民を泥棒あつかいし責任転嫁する態度に終止しました。このことは村民感情に「火に油をそそぐ」結果になりました。読谷飛行場の演習場内に1000名の村民が結集して「降下演習中止並びに演習場即時撤去を要求する村民総決起大会」を開催しました。アメリカ軍は演習を実施することなく中止を表明しましたが、再び演習訓練を実施したので村民は、監視体制のため現地に集まりました。集まった村民は、アメリカ軍が大量に地上兵を動員し、盾とこん棒を保持しヘルメット、防弾チッキで身を固め、短銃と銃剣を装備するという物々しい重装備をしていることに驚いたのです。しかも、演習場内に進入するすべての道路に5寸クギを打ち込んだ角材を設置し、全道路を封鎖していたのです。 81年、アメリカ軍はまた危険な夜間演習を強行しました。「夜間演習阻止」の抗議行動に立ち上がった村民500人は演習場内の演習ターゲット付近の滑走路上に100台余の車両を動員し横一直線に並べました。これに対しアメリカ軍は警備人を最大動員し、防弾チョッキに身を包み短銃を携帯してものものしい装備で警戒網を敷き、県警は機動隊3個小隊を配置しました。村民とアメリカ軍・機動隊が対峙し緊迫したなか、午後8時演習機が飛来してきたのです。阻止団は車に飛込み、100台余の車のライトを一斉に点滅させ、クラクションを鳴らしはじめました。殺気だつなかアメリカ軍の夜間演習は2回降下しただけで中止となりました。この後も夜間演習がおこなわれ事故もおきていますが、読谷村民の粘り強いユニークな演習阻止行動は続けられたのです。 |