■解説文
読谷補助飛行場でのアメリカ軍パラシュート降下演習が、村民の声を無視して続けられているなか、1986年10月、「滑走路緊急補修訓練鋭い剣」という新たな演習を在沖米海兵隊と嘉手納空軍が合同で実施することを村に通告してきました。演習中止を求めた村の声を無視して、アメリカ軍は早朝から飛行場内にトラックやクレーン車、食糧、水タンク、簡易トイレなどの野営に必要な物資を運び込み訓練準備に取り掛かりました。村では、議会や村職労、区長会、婦人会、老人会、地主会など15団体で構成する実行委員会を結成し、現場にテント小屋を設営して徹夜の監視体制にはいりました。20日の朝、アメリカ軍が大型トラクター2台を導入して本格的に訓練を強行してきたため、怒った村民200人はトラクターの前に立ちはだかり阻止行動を展開し訓練をストップさせました。しかし、アメリカ軍は翌21日から30日まで嘉手納署県警機動隊に守られながら訓練を強行したのです。その間、演習阻止実行委員会では24時間の泊込み体制でアメリカ軍の演習を監視しつづけたのです。 2年後に再開された「滑走路緊急修復訓練」は定期的に行われ、年25〜30回実施されていました、前回の施設部隊に加え「爆発物処理隊」(EOD)がマスクや科学防護服を着け、核有事を想定した大掛りなNBC(核・生物・化学)訓練を実施するというもので、アメリカ軍は3月16日から訓練の準備をはじめたました。村民は猛反対し、那覇防衛施設局に対して抗議と訓練中止を求めましたが、施設局は訓練の容認の態度に終始しました。村民は「もはや我慢の限界、体を張ってでも訓練を阻止する」と決意を固め、滑走路を占領してアメリカ軍の前面にテントを配置し実力闘争に踏み込み、頑として動きませんでした。「米軍の演習激化に抗議し、演習場の即時撤去並びに読谷飛行場用地の返還を求める村民総決起大会」が開かれ、3000人の村民が参加し村民ぐるみで闘いぬくことを誓いました。「一人のアメリカ兵も演習場に入れない。体を張ってでも阻止する」という村民ぐるみの固い意志が、アメリカ軍の演習強行を断念させたのです。 |