■解説文
1976年7月、読谷飛行場内で農耕をしていた農夫からの通報で、飛行場内にアメリカ軍が戦略通信アンテナ工事に着手していたことが村に知らされました。村は工事の中止要請を行い、この工事が楚辺通信所(ハンザタワー)に関するもので「海軍のP3C対戦哨戒機からの受信用アンテナ建設工事」であることをアメリカ軍から伝えられました。読谷飛行場の使用目的に反するアンテナ基地建設にたいして、読谷村長、村議会議長、読谷飛行場用地所有権回復地主会長は建設計画撤回要請電報を防衛施設庁長官、同施設部長宛てに打電し、那覇防衛施設局、県知事、県議会議長、嘉手納航空隊内在沖海軍司令部工務部長などの関係機関に建設撤回の要請、決議文の手渡しなどを精力的におこないました。アンテナ基地建設場所として「読谷飛行場ほど条件のそろったところはない」と、工事をすすめるアメリカ軍とそれを容認する日本政府の態度に、要請行動に限界を感じた村と地主会はついに座込みの実力闘争を決意したのです。10月6日、座喜味・波平・楚辺・大木・伊良皆・喜名の各集落からぞくぞくと地主たちが読谷飛行場に集まり、「これ以上の基地を読谷村には造らせない」・「完全撤去するまでは座込みを続けていく」ことを固く決意し、工事の作業を中止させたのです。しかし、アメリカ軍や防衛施設局は工事を断念するどころか、警察権力を借りてでもアンテナ基地を建設する構えにでてきたのです。地主会が33年余のあいだ訴えつづけた「所有権を返せ」の血の叫びまでも無残に押しつぶされそうな状態でした。権力によって村民の意志が圧殺され、基地反対闘争が挫折することを憂慮した村内の民主団体は「読谷飛行場用地所有権回復支援共闘会議」を結成、村内の婦人会・青年会など政治色のない広範な村民を結集しました。座込み闘争が18日目の10月23日「読谷飛行場内米軍アンテナ設置反対村民大会」が開催されました。横なぐりの雨のなか、参加者は雨ガッパ、長靴に身を固め「アンテナ設置断じて許さんぞ」「村民総結集してアンテナ建設を即時中止させよう」と村民無視のアメリカ軍のやりかたに激しい怒りをぶつけ、「反戦平和をめざし・基地の拡大強化を阻止・所有権の回復をかちとろう」など、三つのスローガンを満場一致で採択しました。その上空には時折アメリカ軍のヘリコプターが飛びかい大会の状況を偵察していましたが、降りしきる雨のなか大会参加者はたじろぎもしないでこぶしを空にむかって振り上げたのです。村民の団結力で工事は中断していましたが、それでも那覇防衛施設局は工事再開を目論み、阻止闘争に対し機動隊の導入を要請していました。村民は県内の民主団体に支援を要請し体制を拡大、山内徳信村長(当時)は直接アメリカ大統領に直訴しました。カーター大統領への直訴状は県内外のマスコミ紙上に大きく取り上げられ、外交問題にまで発展しかねない大きな問題となりました。 |