■解説文
沖縄戦は、「鉄の暴風」といわれたほどすさまじい数の砲弾が飛びかいました。戦後も無数の不発弾が残され、被害を受けた人たちも少なくありませんでした。アメリカ軍は不発弾処理のために読谷村長浜、座喜味、親志、恩納村宇加地にまたがり処理場を造りました。そこは国道・新興住宅地・ゴルフ場などに隣接していました。処理作業が最も激化した1963・4年ごろには頻繁に鉄の破片が落下し、特に座喜味・長浜集落の人々は不安の中での生活を強いられました。70年には農耕中の農夫の足元に破片が落下、71年には座喜味の民家の屋根に400gの砲弾の破片が落下し瓦3枚をぶちぬき柱につき刺さるという事件などが発生しました。それだけでなく、復帰直前(71年)に毒ガス撤去が行なわれましたが、完全撤去されたはずの毒ガス事故が73年に発生したのです。アメリカ軍の不発弾処理作業の不手際で流出した毒ガスは、催涙ガスの一種でノドや目に痛みが走り、頭が痛みだすという無色、無臭の毒ガスでした。北東の強い風にのって座喜味集落を瞬時に汚染し、読谷飛行場を吹き抜け、読谷高校まで広がり、村民を恐怖のどん底に陥れました。この事故から数か月すぎたころ、読谷の不発弾処理場を自衛隊がアメリカ軍と共同使用していくことが、73年4月の日米合同委員会で合意されたことが村民に明らかにされ、読谷村民の感情を大きく刺激し強い反発を招きました。74年には不発弾処理作業による砲弾の破片が処理場周辺に飛散し、鋭い破片が雨のように周辺住民の上にふり続け、住民たちは恐怖の日々を過ごさなければなりませんでした。 |