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常設展示室

第1展示室:読谷村と沖縄戦

第2展示室:抑圧された占領下の時代

第3展示室:基地の中のむらづくり

第4展示室:基地の中に打ち込んだ文化のくさび

テーマ1:返還された軍用地

テーマ2:基地被害 −終わらない戦後−

テーマ3:村民主権 −基地撤去の闘い−

テーマ4:文化による外交

テーマ5:平和の炎が立ち上がる −軍用地の跡地利用−

第5展示室:平和村づくりの推進

第6展示室:21世紀グランドデザイン

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2.アメリカ軍不発弾処理場

■解説文

 沖縄戦は、「鉄の暴風」といわれたほどすさまじい数の砲弾が飛びかいました。戦後も無数の不発弾が残され、被害を受けた人たちも少なくありませんでした。アメリカ軍は不発弾処理のために読谷村長浜、座喜味、親志、恩納村宇加地にまたがり処理場を造りました。そこは国道・新興住宅地・ゴルフ場などに隣接していました。処理作業が最も激化した1963・4年ごろには頻繁に鉄の破片が落下し、特に座喜味・長浜集落の人々は不安の中での生活を強いられました。70年には農耕中の農夫の足元に破片が落下、71年には座喜味の民家の屋根に400gの砲弾の破片が落下し瓦3枚をぶちぬき柱につき刺さるという事件などが発生しました。それだけでなく、復帰直前(71年)に毒ガス撤去が行なわれましたが、完全撤去されたはずの毒ガス事故が73年に発生したのです。アメリカ軍の不発弾処理作業の不手際で流出した毒ガスは、催涙ガスの一種でノドや目に痛みが走り、頭が痛みだすという無色、無臭の毒ガスでした。北東の強い風にのって座喜味集落を瞬時に汚染し、読谷飛行場を吹き抜け、読谷高校まで広がり、村民を恐怖のどん底に陥れました。この事故から数か月すぎたころ、読谷の不発弾処理場を自衛隊がアメリカ軍と共同使用していくことが、73年4月の日米合同委員会で合意されたことが村民に明らかにされ、読谷村民の感情を大きく刺激し強い反発を招きました。74年には不発弾処理作業による砲弾の破片が処理場周辺に飛散し、鋭い破片が雨のように周辺住民の上にふり続け、住民たちは恐怖の日々を過ごさなければなりませんでした。

■写真解説

不発弾処理場の位置と被害地図

不発弾処理で落下した破片

毒ガス流出事件に対する抗議村民大会

 

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更新日:2008年3月18日