■解説文
読谷村のほぼ中央に位置し、接収前は大部分が農地で喜名・伊良皆・座喜味・楚辺等の集落が点在していました。1943年の夏、旧日本軍がこの地域を接収して、北飛行場を建設し、その周囲に弾薬の集積所・兵舎・給油施設等も設置しました。45年4月、アメリカ軍は上陸と同時にこの地域を占領し、本土侵攻のための前進基地として飛行場を拡張強化しました。46年には各地で収容生活をしていた村民に帰村許可が出されましたが、この地域は立入禁止区域となっていました。それ以来この飛行場は、アメリカ軍の離着陸演習・落下傘訓練等につかわれ、本土復帰後も空軍管理下で四軍のパラシュート人員降下・物資投下訓練等の空挺訓練に使用されていました。この飛行場は2000mの滑走路と約1500mのエプロン、貯油タンク、アメリカ陸軍憲兵司令部の保安部警備事務所がありました。74年にはP3C対戦哨戒機の那覇飛行場から嘉手納飛行場への移駐にともなう通信施設の建設工事がはじめられましたが、村長をはじめとする地元読谷村民の工事現場座込み等の反対運動により工事は白紙撤回になりました。この飛行場での演習や訓練による住民地区へのさまざまな被害や作物被害の発生は絶え間なくおこり、トレーラーが空から落下して人命を奪う事件までおきていました。読谷村の中央部でしかも広大な平坦地であるため、農業振興の隘路になるとともに、工業開発地区の指定も受けていながら、軍用地が返還されないため、地域の振興開発上の大きな障害となっていました。戦前、村も旧地主も土地代を受け取らず、戦争が終われば地主に返すという約束で強制接収に応じたのだから、元の地主に返すべきであるとして、「読谷飛行場用地所有権回復地主会」を結成して、返還運動を行なっています。 |