サイトマップ

 文字を大きくするには

トップページ 常設展示室 読谷人物伝 ライブラリー 旅行ガイド クイズラリー アンケート
文字サイズ文字色変更が行えます。

常設展示室

第1展示室:読谷村と沖縄戦

第2展示室:抑圧された占領下の時代

第3展示室:基地の中のむらづくり

第4展示室:基地の中に打ち込んだ文化のくさび

テーマ1:返還された軍用地

テーマ2:基地被害 −終わらない戦後−

テーマ3:村民主権 −基地撤去の闘い−

テーマ4:文化による外交

テーマ5:平和の炎が立ち上がる −軍用地の跡地利用−

第5展示室:平和村づくりの推進

第6展示室:21世紀グランドデザイン

広く

深く

 

2.ボーローポイント射撃場

■解説文

 読谷村の西側一帯は広大で平坦な農耕地がつづいています。戦前は宇座、儀間と国吉屋取(ヤードイ)の集落があり、ほとんどは農耕地として利用されていました。1945年4月1日、読谷村に上陸したアメリカ軍は4月ごろには、ほぼ村の全域を占領下においていまた。村の西側地域には飛行場(ボーロー飛行場と称された)を建設し、本土侵攻の前進基地として使用しました。その後嘉手納飛行場が拡張整備されたことにより、ボーロー飛行場は戦車の砲撃演習場となり、残波地域は戦闘機による射撃や銃撃演習地となりました。1949年には、この地域の東北部瀬名波にアメリカ国防省所管の情報機関「FBIS」(海外情報局)が設置され、アジア各国の公共放送・各種報道機関の通信を傍受し、分析して軍事目的に利用したといわれています。さらに57年にはFBIS地域に隣接した瀬名波と座喜味にナイキ基地を新設し、59年には残波地域にナイキ・ハーキュリーズ基地を建設しました。アメリカの軍事支配下(復帰前)にもかかわらず、航空自衛隊の実射訓練や研修などにも使用されていました。この地域が返還されたのは、復帰後のことです。74〜77年の間に、7回にわたり、全施設面積(4,816平方km)の83%が返還されました。この地域は第15回安保協議委員会において返還合意され、その後、難渋をきわめた地籍の明確化事業を多くの地主、関係者の努力と協力により終了し跡地利用にむけて動きだしました。

■写真解説

ボーロー飛行場の位置と面積

ナイキ・ホークの発射演習1963(昭和38)年11月

残波岬で発射演習を見学する自衛隊員 1968(昭和43)年2月

 

前へ 次へ

 

更新日:2008年3月18日