■解説文
楚辺は古くからの集落で、三線(サンシン)の始祖といわれる赤犬子を祭っていて、芸能が盛んな集落でした。沖縄戦後読谷村の全域が占領地となったため村民は各地の収容所で暮らしていました。1946年の11月に楚辺・大木地域に居住が許可されると翌年には移動を開始し、ふるさとの復興につとめました。しかし、朝鮮戦争が始まると沖縄は重要な後方基地となり、アメリカ軍による基地の拡張が行われるようになり、ようやく落ち着きかけた楚辺の住民にも立ち退きの口頭伝達がありました。これに対し、51年5月に住民は読谷村長に対し陳情書を出しました。陳情書はこの接収が復興に向けての住民の精神的な打撃や社会的損失に繋がることを述べ、「現在の場所かやむを得なければ半分だけでも居住を許可して欲しい」という切実な訴えに始まり、移住先敷地確保、水源の確保、資材の不足と経済面からくる住宅の再建、食糧不足による餓死者の心配、苦しさから現在の社会や政治をきらう風潮の出る心配、学校の移転敷地の確保などによる教育事業の中断、耕地減による食糧生産の減少など集落移転に伴う七項目にわたる問題点をあげています。これを受けて、村長が群島政府知事あてに居住居座りを求める陳情書を出しましたが7月には米国民政府の解答が出され、陳情文の返却、陳情の却下、住民の居住地として読谷集落の他の地域が利用できること、移動地の井戸掘りには支出承認を得てから移動資金から援助するというもので住民からの訴えは退けられました。これに対し、9月には先に出した問題点をさらに具体化した陳情書を提出しましたが、10月に出された文書には“米国空軍の緊要施設々置のために指定されているという理由で却下された”ことを述べ、これ以上立ち退きを遅らせることのないようにとの解答でした。11月には工事の指定についての文書を出し、立ち退き要請の通牒を出しました。これにより楚辺の住民は立ち退きを余儀無くされ、土地を失った人々のなかには住み慣れた土地を離れ、遠い八重山の石垣島に開拓移民として移住する人たちもいました。住民の切実な訴えは、アメリカ軍の基地拡張の政策の前に退けられたのです。その後、立ち退かされた土地には情報の収集と分析を目的とするトリイ通信施設が建てられ、楚辺の住民は現在でもふるさとの土地に戻れずにいます。 |